第1話 山のあなた

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第1話 山のあなた

 空が遠い。  ほんのわずかな距離を走り抜けた先、見上げた空は、透き通るように青かった。手を伸ばしても、まるで届きそうにない。この距離が、あたしが行きたい場所と居たくない場所との距離なのかもしれない。  落ちてくる初夏の日差しに焼かれながら、あたしは荒い呼吸を整える。治ったはずなのに、右足首の違和感が消えない。自分のタイムを確認して呆然とした。夏に向かう爽やかな空が、こっちを見て笑っているように思えた。  青空の向こうに、好きな詩の一節が思い浮かぶ。山のあなたの空遠く、さいわい住むと人のいう、ああ、われ、人と……。この後はなんだったかと考えていたら、危ない! と声が聞こえて、気付いたら顔面にバスケットボールが迫っていた。  ぼこん! 鈍い音がして鼻の奥が熱くなった。  体育館で練習していたバスケ部の連中が走り寄ってくる。真っ先に来たのは、この春からレギュラーを勝ち取った里見哲也だ。 「わりぃ。涼子、だいじょうぶかよ」 「あんたは、これがだいじょうぶに見えんのか?」  あたしは、ぽたぽたと鼻血を垂らしながら応じる。すると、陸上部の後輩でエースの若松日菜が、哲也の方をちらちら見ながら、 「水島先輩、ぼうっとしてるから顔面で受ける羽目になるんですよ。タイムもひどいし、まじめにやってますか?」  まじめにやっていてこのタイムだから辛いのに。歯にきぬ着せない日菜の物言いは、時に胸をえぐる。 「ほら、保健室へ行きましょう」 「あ、うん、ごめん」 「キャプテンでしょ。しっかりしてください」 「うん、ごめん」  謝ってばかりのあたしに、呆れたようにため息をついて、ぐいぐいと保健室へ向かう。 「水島先輩。先輩は、なんで里見先輩から名前で呼ばれてるんですか」 「哲也のこと? 家が近くて子供の頃はよく遊んでたからね。最近はぜんぜんだけど」 「ふーん。それだけですか?」 「それだけだよ」  こうしたやりとりが面倒で、哲也に、呼び捨てにするなと文句を言ったこともあるけど、一向に直らない。  あいつは、中学に入ってから急に背が伸び、バスケ部レギュラーって肩書きを得て、妙にモテるようになった。学校の行き帰り、たまに一緒になると、ラブレターをもらっただの、告白されただの、相談と称した自慢話を聞かされるのだ。  こちらは、その気もないのに、哲也に色目を使っているなどと嫉妬の敵意に晒されて、いい迷惑である。  保健室では鼻に詰め物をしてもらって、今日はもうこのまま帰るようにと言われた。日菜からも、後はやっておくので帰ってくださいと。  なんとなく追い出されたような気持ちで家路についた。制服は丸めてカバンに突っ込み、ジャージ姿のままだ。路上駐車された車の窓に、髪はぼさぼさ、汗まみれで眼鏡をかけたやせっぽちのジャージ女が映っていた。  走るときは眼鏡を外して髪をくくるので、眼鏡を割られずに済んだ。それだけは良かったな。良かった、良かった。気持ちを保てるように繰り返すけれど、自宅が近付くにつれて、だんだん気が滅入ってくる。  案の定、帰宅するや否や、おかえりより先に、母さんの不機嫌な声が飛んできた。 「あ、またジャージで。制服を丸めちゃダメだって何回いったらわかるのよ」 「うっさいなあ。あたしが着るんだから別にいいじゃんか」 「良くないわよ。世間様の目ってものがあるんだから。あんたのせいで、うちがだらしない家だと思われるでしょうが」 「いいじゃない別に。裸で登校するわけじゃないんだからさ」 「そういう屁理屈はやめなさい。こら、まだ話は終わってないわよ。待ちなさい」  涼子! と声を荒げる母さんを放っておいて、二階へあがる。世間様の目から自分の部屋へ逃げ込む寸前、最後の関所だ。姉ちゃんの部屋のドアが開いており、馬鹿にしたような声が響いた。 「涼子、また怒られたの? 母さんは、父さんと喧嘩中でイライラしてるだけなんだから、あんたも適当に返事しときゃいいのよ。要領悪いんだから」 「はいはい、そうですね〜」 「それに、その格好! ちょっとはオシャレしたら? ダサいジャージばっか。たいして足も早くないんだしさ」 「……ほっといてよ、バカ姉貴!」  あんたねぇ、と続けようとした姉ちゃんの言葉を遮って、勢いよくドアを閉めてやった。  ぺたんとベッドに倒れこむ。  手探りでリモコンを操作し、エアコンをつけた。まだ効いてこない風が、タールのように熱く淀んだ空気を、とろとろと掻き回す。  そのなかへ、あーあ、と声に出して。  みんなうるさいよ。なんもかんも放り出して逃げ出したいなあ。山のあなたの空遠く、さいわい住むと人のいう、か。  そうだ。ふと思いついて、パソコンでネットの神待ち掲示板を探す。家出を想像するだけで楽しいんじゃないか、そう思って。  もちろん、あたしだってバカじゃない。こんな危ないことを本気でやるつもりはない。個人情報を出さないように気をつけて、歳と性別、プチ家出に興味があると書き込んでみたら、あっと言う間に何十人もの神様が現れた。助平で安い神様だなぁと思いながら、それぞれのご神託を確かめる。  ほとんどが下心丸出しの書き込みだった。あたりまえか。でも、その中に、ただ一人、まともな書き込みがあった。  相手はサマーボーイ、あたしはウォーターというハンドルネームで、少しだけやりとりをした。会わなきゃいいんだ。 サ〈プチ家出なんて、しょうもないよ。なんか悩んでるの?〉 ウ〈目立った悩みなんてないよ。ただ、どこかへ行ってしまいたいだけ〜〉 サ〈わかる〜。一切合切、捨てたくなる時ってあるよね〉 ウ〈へー、サマボさんもなんだ。そんな時は、どうするの? どうしたらいいの?〉 サ〈待つんだよ。潮が満ちて、また引いていくように、引くのを待つんだ。どんな苦しみも悲しみも、怒りも喜びも、消えないものはないから〉 ウ〈ただ、なんとなく息苦しい時は?〉 サ〈窓を開けるか、エアコンでもつけたら?〉 ウ〈そだね〉  気付くと、苦しそうに唸り声をあげていたエアコンの音が静かになり、タールのような空気は霧散して、べたつく汗も引いていた。  サマボさんの達観したようで、その実、ぺらぺらの軽い言葉が、あたしの背中から重いなにかを引きはがして捨ててくれたようだった。 ウ〈また、メールしていい?〉 サ〈いいよ〉
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