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俺は僕ではなく、俺だ。隠れんぼをするような年齢でもなければ、学校に通うような年齢でもない 。俺は、ここが夢の中であることを確信し、目を覚ました。
奇妙な夢だった。目を開けると、満員電車のなか、会社へと向かう途中であった。奇しくも、人混みのなかである。
満員電車に慣れるつもりなんてなかったのに。俺は深く溜め息を吐いた。
サラリーマンと芸人という二足の草鞋を履いている。もともと芸人のみでは生活が苦しく、芽が出るまでの腰掛けとして始めた仕事だったが、今ではどちらが本業かわからない。
たまに上がるステージではスベり倒し、オーディションでは落ち、動画サイトにアップしたネタ動画の再生数は未だに3桁に届かない。
誰も俺を見つけてくれない。誰も俺を探してくれない。やはり俺は、森に紛れる木なのだ。
人混みは孤独の集合体のように思っていた。誰もが孤独で、意思疎通の取れない集合体。人混みに紛れても、独りであることには変わりない。
でも、外から見れば、一つの集団でしかない。その中から、誰も俺を見つけることはできない。
目的の駅で電車を降りると、一人の男と目があってしまった。俺が芸人の道に引きずり込んでしまった相方である。
「お前、ちゃんとネタ書いてんのかよ」
その男は、挨拶もなしに俺を責め立てた。その姿は、さながら借金取りのようであった。俺は会社への道を歩きながら、何か言い訳ができないかと考えた。
「そんな事より、さっき変な夢を見たんだ」
とりあえず、夢の話をしてお茶を濁すことにした。
「脈絡なさすぎだろ。『そんな事より』って言えばどんな急展開も許されると思ってんのか」
「俺が小学生くらいの男の子で、人混みのなかに隠れようとするんだけど、すぐに見つかってしまう夢」
「聞いてる限りだとそこまで変な夢じゃないけど」
「最後に俺はこう思うんだ。『人になりたい』って」
「お前人じゃなかったのかよ」
「俺は多分、木だった」
「小学生くらいの男の子でなおかつ木ってどういう設定だよ。世界観ぶっ壊れてんのか」
「目が覚めた今も、未だに木だ」
「俺が植物に話しかけているヤバいやつみたいになるからやめろ。お前は人だよ」
「いや、人混みの中で見つけてもらうには、むしろ木にならないと駄目なんだ。部長の髪みたいに不自然にならないと駄目なんだ」
「お前のところの部長のヅラ事情は知らんが」
「ここ最近の社長の髪みたいに自然じゃいけないんだ」
「資金力の差が如実に表れてんじゃねえか。ここ最近自然になったなら、それはそれで不自然だけどな」
「この人混みでは、誰も俺たちを探してくれない」
「……そんな事より、ネタは?」
「書いてません」
とうとう観念した。これ以上に話を引き伸ばせる技量がなかったのだ。
「だと思ったよ」
相方は、特に怒った様子もなく、むしろ少しだけ笑った。
「俺を芸人に誘ってくれたのはお前だよな」
「ああ」
いつまで経っても芽が出ない芸人にさせてしまったのは俺だ。こればかりは、責められても仕方がないと思う。
「つまり、人混みのなかから、俺を選んでくれたって事だよな」
「見方によってはそうだな」
「そうだ。これは飽くまでも『見方によっては』だ。お前は俺を選んだ気でいるかもしれないが、俺もお前を選んだんだ。お前とならやれると思ったから、俺はこの道に入ったんだ」
「お、おう、そうか」
「ちょっと引いてんじゃねぇよ殺すぞ」
殺すぞというのは彼の物騒な口癖であり、実際に殺されたことは一度もないので、真に受ける必要はない。
「なにが言いたいかというと、人混みのなかに紛れても、誰も探してはくれないかもしれないけど、誰かが見つけてくれるかもしれないってことだ」
「……つまり?」
「今のが『つまり』だろ殺すぞ」
誰も探してくれないかもしれないけど、誰かが見つけてくれるかもしれない。なんの解決にもなっていない考え方だが、一理ある。
誰かに見つけてもらうには、ネタを書き続けるしかないんだろうな。
「わかった。俺、ネタ書くよ。来週から」
「遅くとも明日から書けや殺すぞ」
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