心ひんやり

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心ひんやり

季節はあると面白い。はたしてそうだろうか。 扇風機がまっすぐ前を向いて男に風を送る。男の名前は安藤、タンクトップに半ズボンで外から見られても通報されない格好を保っていた。本当は裸でありたいし、水風呂に浸かっていたいが腹を壊してしまったためそれはできない。今こうして扇風機の風に当たるだけでも腹に響く。上着を着れば熱中症のリスクが高まり、このまま風に当たれば腹が痛む。なんとも面倒なことになった。 金欠だから頼りたくなかったが、もう仕方あるまい。スマホの検索履歴から目的のサイトを探し出す。見覚えがあるトップ画面には清涼感がある写真と共に社名が大きく飾られている。いわゆる出張サービスだ。 電話は2回目のコール音の後繋がった。 『お電話ありがとうございます。こちらクールサービス雪祭りです。本日はどのようなご用件でしょうか?』 「とにかく冷たいひとを派遣してください」 ぼたぼたっと汗が床に落ちて水玉を描いた。 ピンポーン。 「きたっ!はーい!!」 急いで水中から足を上げる。タオルを掴む間に、桶がひっくり返って中の水がすべて流れたが洗面所まで濡れていないので無視だ。とにかく手に持っているスマホが濡れないように気をつける。 水気を吸ったタオルを洗濯機へ投げ入れてドタバタと廊下を走り、勢いよく玄関の鍵を開ける。 「うわ!あ、えー、こんにちは。クールサービスから派遣された幸男です。種族は雪男で……」 「入って!」 「はい?」 「どうぞ!中に入ってください、外は暑いので!!」 全身毛皮の彼から発せられる冷気を僅かも逃したくなくて強引に室内へすすめる。 幸男さんは戸惑いながらも中へ入ってくれた。そして部屋を見回して、なぜか頷き改めて俺の方を向く。 「移動する間にも部屋を冷やしますので、窓を閉めていただけますか?」 なんて素晴らしい提案だ。 「わかりました!」 障害物競争、自己ベスト更新を狙い家中の窓を閉めていく。幸男さんがリビングに到着する頃には部屋の温度が少し下がっていた。幸男さんに早速座布団を進めるが、その前にと扇風機を指した。 「部屋の中央で扇風機に当たると冷風が室内全体に言える回りますのでオススメです」 な、なんだってー! 「ぜひお願いします!」 「わかりました。えー、この辺りが良さそうですね」 幸男さんが立ち止まった位置に素早く座布団を敷き、座っていただく。ついでに折りたたみ式のテーブルと新品のティッシュ、綺麗に掃除しておいたゴミ箱に袋を設置して、簡易的な憩いの場を提供させていただいた。 「どうぞ使ってください」 幸男さんは数秒フリーズして「ご丁寧に、ありがとうございます」と座布団の上に腰を下ろしてくれた。それから俺の全体像を確認して言った。 「10分ほどで部屋全体が冷えてきます。結構強く冷気を発しますので、長袖長ズボンを着用をお勧めします」 「ああ、タオルケットを用意しているので、それを被っておきます」 「でしたら大丈夫ですね。部屋を冷やした後、電話受付で伺ったコース内容について改めてご説明と書類にサインをいただきます」 「わかりました。じゃあ、ちょっと風呂場の方で片付けてきますね。さっき慌てて出たから散らかっちゃって。貴重品は身につけておきますので」 「ありがとうございます。私はこのままおりますので」 「はい、すぐ戻りますね」 まっすぐ風呂場へ向かう。洗面所の扉を開けると投げたタオル、浴室にひっくり返った洗面器が持ち主の慌ただしさを表しているようだ。まず洗面器を定位置に戻し浴室の扉を閉めて乾燥機を作動させる。次に投げたタオルを拾って再び足の水気を拭い洗濯機へ放り投げる。床は掃除済みで汚くないのでこれで片付けは済ませてしまっていいだろう。 ポケットに入れたスマホを取り出しメッセージを起動させる。まだ新しい知らせはなかったので、がっかりだ。仕方がないので過去の写真を遡って眺める。数分犬成分を補充したところでリビングへ戻る。 幸男はとても丁寧な対応をしてくれていい感じだ。 「安藤さん、部屋が冷えてきたので扇風機を勝手に切らしていただきました」 「ありがとうございます、全然いいですよ。じゃあそろそろ書類をかきますか?」 「ええ、始めましょう」 夕方、三時間コースを終えて幸男さんが帰るところだ。 「それでは、お渡ししたサービス品は約八時間持ちます。夜もこのまま窓を閉め切っていただければ朝までよく冷えたままですから、十分に眠れると思いますよ」 「朝まで冷えてるなんて最高ですよ、ありがとうございます。これで寝不足が解消されます」 「いえいえ、これもサービスですから。よろしければまたご連絡ください。これ名刺です、それでは失礼します」 「ありがとうございました!」 バタンと玄関がゆっくり閉まる。足音が小さくなってから鍵をかけて、幸男さんから貰ったクーラー代わりの箱をリビングのテーブルに置く。中には雪男特製の氷が入っており蓋を開けず日陰の涼しい場所に置いておけば、約八時間も冷気を発してくれるのだ。なんて便利なものをくれたんだろう。しかも朝まで冷やしてくれるなんて、手厚いアフターサービスだ。次回利用させてもらった日は幸男さんにお願いしよう。 夕飯に何を食べようか冷蔵庫を開けようと手を伸ばしたところで、犬の鳴き声がした。素早くポケットからスマホを取り出し、メッセージを表示する。 愛らしい我が子の写真だ。見た瞬間顔がダラリと溶けた。 「かぁわぁいいな〜!」 エアコンが壊れてしまったのでペットホテルに預けているダックスフンドで、名前は餅巾着、三歳だ。カラーはクリーム系で、子犬の頃もちもちと丸かったので餅巾着と名付けた。トイレでもキッチンでも風呂でも付いてくる可愛い子だ。 数時間ごとにペットホテルからこうして我が子の様子を撮っておくってくれるのだ。ペットが寝る前には、その様子を動画で送ってくれるのでとてもありがたいとシステムだ。毎回たまらずデレデレとにやけてしまう。眠っていてもおきていても魅了されて止まないのだ。 そしてふと思い出す。早めに食べるのもいいがあの子がいないからこそできる事をさっさと済ませてしまおう。 アイロン、掃除、模様替え、つつがなく済ませてしまう度に犬がこの家にいなくて寂しいと思ってしまう。 ロック画面の写真をじっと見る。そこには犬の寝顔があった。ふうと息を吐く。 「体は冷たくて気持ちいいけど、お前がいないと寂しいよ」 《終わり》
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