燃える人々

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 朝から太陽は雲に隠れている。そのせいもあってか十六時をすぎた頃には町が薄暗くなっていた。大学から別荘に戻って扉を開けた瞬間、一段と冷え込んだ外気を寸分たりともいれまいと、中から熱気が押し寄せてきた。襲いかかる熱は冷え切った身体であっても、室内温度が高すぎるのを察するに申し分ない。  入るのをためらったが、ドアを開けっぱなしにしておくわけにも、外にずっといるわけにもいかず、仕方なく入った。もはや温かいを通り越して、息苦しい。自宅警備員は、肘掛椅子に足を組んで平然と座っていた。読んでいるのは芥川龍之介。一番好きな作家の本を読んでいるから、機嫌はよいらしい。毎日どれほどの厚さでも一冊なら読みきってしまう読書家は、気分によって読む作者を変えていた。 「温度上げすぎじゃないかな? 地球によくないよ?」 「地球はもっと暖かかくなるべきだ」  苦笑する。この分だと、また新しく灯油の使用量を抑えさせる方法を見つけなければならない。  リュックを開いている椅子に置き、ストーブのスイッチを切る。「行くでしょ、若高」 支えて持っていた手で挟むようにして本を閉じる。「つくまでに、凍死しないといいけど」  若草高校に行くのは約二年振りだ。正門をくぐる。グラウンドでは生徒たちの声が闇をはらみ始めた空のもとで響き渡っていた。サッカー部と野球部がグラウンドを半分に分け合って練習している。鉄扉で閉ざされている体育館からはシューズが床をこする甲高い音と、床を打ちつける低音がかすかに漏れている。  玄関前を通過し校舎の裏手に回る。職員玄関から入り、無造作に詰め込まれているスリッパのかごから一足抜き取る。事務室の受付に声をかける。事務員の人はこちらの顔を覚えていた。高校時代、生徒会に所属していたこともあって事務室に出入りすることが多かったせいだろう。内田君のことを覚えているのは、彼が卒業間際に打ち立てた偉業のおかげに相違ない。来客証と書かれた札をもらう。赤いひもがついていたので、首からかけろとのことらしい。しかし内田君はあたり前のように札にひもを巻きつけて、コートの外ポケットにしまってしまった。  職員室をのぞくと、他の先生と談笑している宮坂先生を見つけた。三年生のときの担任だった。廊下から名を呼ぶと、一度振り返り、片手を挙げた。何か断りをいれてから輪から抜けてこちらにやってくる。「久し振りだな、永井、内田。とりあえずあっち入りな」顎で指したのは、向かいの進路指導室だった。  テーブルに進路関係の教材が積まれている。宮坂先生は適当に重ねて六つくらいあった束を二つに減らしてわきにどけた。一学年六クラスなので、一クラス一束だったのだろう。だが全て同じものだった挙句仕切りもないせいで、あとで元に戻すのは手間がかかりそうだ。先生と向かい合うように座る。右には内田君。 「永井から連絡がきたときはびっくりしたよ。いきなり学校で起きた事件について調査したいって言うもんだからね。校長先生に取り合ってやったこと、感謝しなよ」  突然訪れて捜査すると言われても学校側だって困るのではないか、と考えて、おとといにアポイントを取っておいた。そのときに出たのが偶然にも宮坂先生だった。 「にしても変わんないねえ。まああんたたち、二人ともクラスん中じゃ割と大人びてたもんなあ」女とは思えぬさっぱりとした口調とひょうひょうとした態度は、先生の方も変わりがない。 「永井は大学どう? 楽しくやってるか?」 「はい、充実していますよ。バンド始めました」 「はあ? 永井が?」目をむいた。「ちなみになんの楽器やってんの?」 「キーボードです。うちのリーダー曰く、新感覚ロックバンドには、キーボードが必要なのだそうです」  校内一の優等生がとんだ転生ぶりだな。しみじみとつぶやく。苦々しく笑みを浮かべてみた。嘲笑になりかけたのを必死に抑え込む。 「で、内田は探偵業、頑張ってるらしいな。風のうわさでよく聞くよ」 「頑張ってるってほど、たいした成果は上げてません。探偵なんて職業が珍しいから、勝手にうわさになってるだけです」  先生は吹き出した。「そう悲観的にならなくてもいいじゃんか。珍しいだけじゃ、うわさは長続きしないよ。正直、内田が受験も就職もせずに探偵になるって言ったときはどうしようかと思ったけど、よかったよ」  かすかに笑みを漏らす元担任教師から、内田君はそっと目をそむけた。  まっ、近況報告はこの程度にしておくか。言うや否や、笑いが収まり表情が険しくなる。何から話すべきかと迷っている様子の先生に内田君が、新聞などで情報は得てますし、依頼者からもある程度聞いてますが、一応焼身の方で知ってること教えてもらえますか。フォローする。しかし、先生は眉をひそめた。 「依頼者? 誰だ」深刻みを帯びている。 「訊かれてやすやすと答えると思いますか?」対して冷ややかな態度。「うちの業界は、信用で成り立ってるんで」 「でも、これはこの学校で起きてるんだよ。だったらこっちにも知る権利がある。むしろこっちが知らないなんておかしいでしょ。ちゃんと警察が調べてくれてる途中なのに、知らない誰かが依頼したなんて、おかしいでしょ」 「探偵に依頼を持ち込んでくるやつは、今のところ二種類に分けられます」左手でピースサインを作る。「一つは自分の手に負えないとき。一つは何か公に知られてはいけない事情を抱えてるとき。今回は明らかに後者です。実名を明かせば、隠れてわざわざ依頼してきた人の気持ちを踏みにじることになります」  息をのんだ。他人の気持ちなどという言葉が、彼の口から出てくるとは思わなかった。  先生は口を半開きにしていた。しかし一度きゅっと引き結ぶと緩める。なんですか。とがりぎみな問いが飛ぶ。いや、と片手を顔の前で振る。 「確かに内田の言う通りだよ」一呼吸置く。「十二月九日の木曜に、二年二組の早見裕也がいきなり燃えて亡くなった。私のクラスの生徒だ。六限後の掃除が終わったときだったから、四時半頃かな。見たって生徒の話だと、燃える前、早見は水でもかぶったようにずぶ濡れだったそうだ。その日は朝は雨だったけど昼からやんでたから、雨のせいじゃない。燃えた瞬間は腕を何度か振り回して、苦しそうに悲鳴を上げながらどこかに向かって歩いていったらしい。私はちょうど、教室掃除の手伝いが終わって、職員室にいたから、直接は見てない」  視線を外して、眉間にしわを寄せている。記憶の中では、どんな問題に対しても適当に解決している節があったが、やはり宮坂先生は一クラスを受け持つ担任の先生だった。内田君は考えるときのくせで親指を口元に持っていっている。空いている手の人差し指を立てた。「いくつか質問させてください。早見裕也が倒れたのは、井沢優香の死に場所ですよね」  ほとんど断定だった。先生は何度か瞬く。「ああ、確かにそうだったけど」 何かものを言いたげな目をしていたが、質問者は無頓着にも続ける。 「どこらへんですか」 「少人数A教室前だ」 「二人は同じ学年ですか」 「クラスは違ったけどね」 「生徒に質問をするかもしれません」  瞬間、教師の顔が歪んだ。「変なことは言うなよ」  礼を残して進路指導室を出る。
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