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灯油が切れた。講義が終わってすぐに携帯を確認すると、件名さえも省かれたメールがきていた。画面を閉じて、ズボンのポケットにしまう。
今すぐ睡魔を呼び起こさんとしているかのような話をしていた教授が、暖房のスイッチを切った。二百人以上収まるという教室の席は、ほとんど埋まっていた。人口密度と機械が生み出した熱で、教室内はだいぶ息苦しい。それでもコートをはおってリュックからマフラーと手袋を取り出したのは、外の空気を考えたからだ。十二月に入り三度目の土曜日は、かろうじて十度を超えた。晴れてはいるものの太陽の温かみをみじんも感じない。むしろ冷気が肌に痛い。風がさほど吹いていないのが唯一の救いだ。
教室を出ようと席を離れた瞬間、後ろから呼び止められた。振り返ると同じ文化祭実行委員にして同じバンドのメンバー、綾人が駆け寄ってくる。目の前で止まるなり、今日飲み会こない? 誘われた。文化祭実行委員、通称「文実」では、十一月の文化祭が終わって仕事がなくなると、二週間に一度集まって飲みに行くだけの集団になる。
さわやかな笑顔と輝く瞳には断られることを予期していない節がある。少し悩んだように間を置いてから謝る。灯油もらってこなくちゃいけないんだ。家の石油ストーブが切れたって言われて。語尾は半ば消した。もう一度顔の前で両手を合わせて謝る。あー、マジかー。じゃあまた今度な。言葉の節々に失意がにじみ出ている。うん、また誘って。本当にごめん。眉尻を下げて申しわけなさを前面に押し出す。内心ではガッツポーズをしていた。
電車で約二時間揺られ、自転車を約三十分こぐと家につく。家と呼ぶにしては、少し豪華な造りをしていた。門をくぐると小石が敷き詰められた庭。跳び石に従えば、玄関にたどりつく。
元は祖父の別荘だった。松や盆栽はその名残である。大学進学の祝い品という名目で譲り受けた。本音は両親なりの妥協なのだと思う。兄はすでに都内で一人暮らし。弟も都内の大学を目指して絶賛受験生。合格すれば通学時間を考慮して一人暮らしをするだろう。唯一、群馬県内に残った真ん中っ子も一人暮らしをしたがっている。家計がやっていけるはずがなかった。ならば使われずに放置されている市内の別荘にいれてしまおう。見え透いた魂胆だ。
スニーカーを脱ぎ、廊下を進む。リビングに出ると、毛布の塊ができていた。ソファに乗っている。テーブルを挟んで向かい側にある肘掛椅子に、背負っていたリュックを下ろす。マフラーと手袋をその上に置き、コートは部屋の隅に追いやられているコートかけにかける。毛布を掴んで引きはがした。内田君がベージュのロングコートをはおったまま、丸くなっている。眼鏡もかけたままだ。毛布をソファの背もたれにかけた。
「内田君、せめて眼鏡を外して寝た方がいいんじゃないかな?」
おっくうそうに目が開き、まぶしそうにこちらを見上げる。元から鋭い目つきが、寝起きの不機嫌さと相まって一層人相が悪い。
「灯油は?」気だるそうだ。
「タンクを取りに戻ってきたんだよ」
「寒いから早く」
腕を目一杯伸ばして毛布を掴むと、自身にかぶせた。顔まですっぽりと覆っている。ため息を漏らしたくなった。先の教室内のような息の詰まる温かさはないけれど、外の肌を刺すような寒さに比べたら格段にすごしやすい。灯油ストーブの働きの成果だ。寒がりの域を超えている元同級生を部屋から出してやりたかった。
ポリタンクを取りに奥のキッチンののれんをくぐろうとすると、玄関のチャイムが鳴った。腕時計に目を落とす。午後二時四十七分。
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