【傘とパーカー】

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【傘とパーカー】

「あーヤバイ、降ってきた」  空模様が怪しいとは思っていたが、鈍色の雲間から落ち始めた雫は瞬く間に地面を濡らして行った。携帯で天気予報を確認すると、朝は曇りだったはずの天気は午後六時以降すべて雨マークに変わっていた。待っていてもやみそうにないどころか時間が経つほどひどくなりそうだと、仕方なく傍らで丸まって眠っている和雪を優しく起こした。 「ん……先輩?」 「悪いな。もう少し寝かせてやりたかったけど、本降りになる前に帰った方が良さそうだ。おまえ、傘は?」 「あ、ないです。本当だ、結構降ってますね」  朝の予報を考えれば当然だろう。春彦は幸いと言うかズボラと言うか去年から置きっぱなしの傘があるので、近いなら送ってやろうと家を訊ねたが、和雪は申し訳なさそうに首を振った。 「俺、電車通学なんです。最寄りから二駅。走って帰るから大丈夫です」 「じゃあせめて駅まで送る。俺は徒歩圏だから、おまえより遅くなることはないし」  恐縮する和雪を急かして部室を出ると、鍵を閉めて職員室に戻してから昇降口で待っていた和雪と合流した。  風は強くなかったので傘は比較的差しやすかったが、和雪が遠慮して離れているので肩口が濡れてしまうことが気になった。 「もう少し、寄ってくんない?」 「でも……」 「沢谷、あんまり丈夫そうじゃないし。風邪ひかれたら困る」  左手で肩を引き寄せると、見た目通り華奢な感触が返ってきた。和雪は距離感に戸惑うように手をさ迷わせた後、遠慮がちに春彦のカーディガンをつまんだ。手の感触とその仕草に妙にドキドキしている春彦に、和雪は真面目な顔で言った。 「あの、あまり近いと……俺」 「あ、悪い。嫌かも知れないけど、もう少しだけ我慢して」  言い訳するように早口になる春彦の言葉を、和雪は冷静に否定した。 「嫌とかじゃなくて、先輩に近づきすぎると俺、寝ちゃうかもしれないから」 「え!? 嘘だろ」  思わず立ち止まって目を皿のようにしている春彦に、和雪は苦笑しながら答えた。 「でも実際、この前やらかしましたよね俺」  廊下でぶつかりかけた時、本当に立ったまま寝てしまったことを思い出して、春彦は慌てた。 「いやいや、ここで寝られたらお互いずぶ濡れだし。もうちょっとで駅だから、頑張れ」 「はい」  半分冗談で言ったことを鵜呑みにして、焦りながらそれでも肩を抱いた手を離そうとしない春彦に、和雪は微笑ましさと愛しさが入り混じったような想いを抱いた。 (優しい人だ)  そもそも、最初からこの人の周りの空気は優しかった。誘われるように眠りに落ちたことに自分でも驚いたし、寝に来るとふざけた宣言をしたにも拘らず、受け入れて傍に置いてくれた。そして今も、出会ってまだほんの一ヶ月程度の後輩を、面倒がる素振りも見せずこうしてわざわざ送ってくれている。 (……好きだな)  密かな温かい想いを噛みしめながら、和雪はカーディガンをもう一度きゅっと強く握った。 ***  駅に着くと、春彦は傘を畳んで雫を払い落としてから、和雪に差し出した。 「ほら、持ってけ」  どうやら最初からそのつもりだったらしく、迷いのない動作に和雪は軽く感動しながらも敢えて固辞した。 「さすがに、それはダメです。本当に必要なら、地元の駅で買いますから」  そう言っても、絶対に買わないだろうと春彦は踏んでいた。百円ショップの傘ならともかくビニール傘に五百円の出費は高校生にとって無駄なものでありすぎる。それでも和雪の性格的に傘は受け取らないだろうと判断した春彦は、妥協案として鞄から黒のパーカーを取り出した。 「じゃあせめて、これ。雨避けくらいにはなるだろ」 「先輩のですか?」 「うん、委員の清掃で使った。埃っぽいけど、雨に濡れたらちょうどいいだろ。ないよりマシだろうから、被って帰れ」  嫌がられるかもしれないと思ったが、予想に反して和雪は嬉しそうに受け取った。 「ありがとうございます、じゃあ遠慮なく」  笑顔でぎゅっとパーカーを抱き締める和雪にキュンとしながら、春彦は改札へ消えて行く和雪を見送ってから雨の中へ再び踏み出した。バーカーをえらく大事そうに抱えていた和雪の姿を思い出して、ふと嫌な予感がよぎるのを打ち消しながら、春彦は家路を急いだ。
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