春ノ編 【春眠暁を覚えず】

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春ノ編 【春眠暁を覚えず】

 新学年が始まったばかりの、四月の良く晴れた日のことだった。  先日高校三年生になったばかりの久世(くぜ)春彦(はるひこ)は、早々に五時間目の授業をサボると一人で部室を訪れていた。部と言っても実際は自分を入れてメンバーが五人しかいないため、正式な肩書はあくまで「同好会」である。各々好きな書物を持ち込んで読むだけという非常にゆるい活動内容の「読書研究同好会」を、それでも春彦は気に入り一年の頃から毎日のように入り浸っていた。部室は以前茶道部が茶室として使っていた部屋で、手狭だからと他に新しく設けてからは空き部屋になっていたものに初代部長が目を付けて強引に借り受けたのだが、その名残の畳も気に入っている理由の一つだった。  温暖化の影響で散るのがすっかり早くなってしまった桜は、今年久しぶりに随分と長持ちして卒業式より寧ろ入学式を彩り保護者や新入生の目を大いに楽しませた。それでもさすがに花の割合が六割くらいに減ってしまった桜の樹を畳の上で寝ころびながら眺めているうち、自然と眠気を誘われた春彦は欲求に抗うことなく持っていた文庫本と瞼を同時に閉じた。 (何か、温かい……)  どのくらい時間が経ったのか分からなかったが、隣に温もりを感じて目を覚ますと、一人の見知らぬ男子高校生が自分に寄り添うように眠っていた。 (……夢?)  頭が回らないまま、密着して寝ている相手をぼんやりと眺める。すうすうと寝息を立てている表情はひどく幸せそうで、伏せられた長い睫毛とインドア人種特有の肌の白さが印象的だった。夕陽が照らす淡い色の髪は、触り心地が良さそうに見えた。思わず伸ばした指先にさらりとした感触が伝わり、次いで柔らかい頬に触れると、春彦は途端に現実に引き戻されたように跳ね起きた。 「え、誰!?」  当然の疑問を口にする春彦の目の前で、謎の少年は薄っすらと目を開けた。 「……おはようございます」 「あ、うん、おはよう……じゃなくて!」  ノリツッコミのような反応をする春彦に、寝起きの少年は体を起こしながらくすくすと微笑った。笑うと、まるで桜の花が咲いたように可愛らしい印象だと思わず見惚れた。 (いや、男の子だから)  そもそも初対面で距離が近すぎるせいだと、春彦は少し後ろに下がって距離を取った。 「えーと……赤ってことは、一年生?」  制服のカーディガンの随所にあるラインを指差して訊くと、彼はすぐに頷いた。 「はい、先週入学したばかりです。先輩は因みに青だから三年生ですか?」 「うん。ところで、君はどうしてここに?」 「ああ、そうですよねすみません。今日は五時間目までだったので、終わって帰ろうとしてたんですけど。中庭に桜が見えて、せっかくだから観賞()て行こうと思ったんです」 「ああ……校門のより小さいし普段は目に付かないけど、こっちも風情があるよな」 「はい。それで中庭に回ったら、校舎の窓からこの部屋が見えて。何気なく眺めたら、人が倒れてて……」  周囲に本が散らばっていたので、まさか寝ているとは思わなかったと彼は苦笑交じりに語った。 「それは……ごめん」  自分のだらしなさを反省しながら、それでもまだ肝心の質問をしていないことに気がついて、春彦は重ねて訊ねた。 「あのさ、それで――どうして、君まで寝てたの?」 「それは、その」  今度は困ったように視線を逸らすと、勘違いして駆けつけた直後のことを振り返りながら訥々と話した。 「慌てて部屋に飛び込んだものの、様子からすぐに眠ってるだけだって分かって。最初靴も脱がずに上がってしまったので、急いで靴を脱いでそこにあった雑巾で畳を拭いてから、ほっとしてしばらく座ってました。そしたら、先輩があんまり気持ち良さそうに眠っているから……すごく、すごく羨ましくて」 「羨ましい?」 「俺、実は不眠症なんですよ。慢性的に、夜も殆ど眠れないんです」 「……は?」  初めての場所で、初対面の相手の隣で、あんなにぐっすり眠っていたのに? 一瞬、揶揄われているのかと疑ったが、相手の表情は至って真剣だった。 「本当なんです。だから先輩の寝顔を見て、ああいいな、俺もこんな風に眠ってみたい……そう思って近づいたら、何だか懐かしい匂いがして。何だろうって思ってるうちに、気が付いたら俺も先輩の隣で眠っていました」 「懐かしい匂いって何? 畳とか?」 「家に昔から畳はなかったので、違うと思うんですけど。そうじゃなくて……ちょっといいですか?」 「え……っ」  春彦のカーディガンを両手で引き寄せると、彼はそこに顔を埋めるようにして匂いを嗅いだ。 「ああ、やっぱり先輩の匂いなのかも。何だろう、懐かしいし落ち着く……」 (近い……っ)  サラサラした柔らかい髪が手首に当たる。妙な気恥ずかしさにそのまま固まっていると、彼はパッとその場で顔を上げた。近くで見ると一層繊細な顔立ちに意味も分からずドキリとしていると、相手は春彦の動揺などお構いなしに口を開いた。 「あの、俺またここに来てもいいですか? 先輩の隣なら、また眠れるような気がするから」 「え、それって寝に来るってこと?」 「はい。そう言えばそもそも、ここって?」  ここが何のための部屋かも分からず、寝るためにまた来ると宣言した後輩に、春彦は呆れつつも思わず笑ってしまった。 「ここは『読書研究同好会』の部室で、一応俺が四代目の部長。君が入るなら歓迎するし、部員なら出入りは勿論自由だ。どうする?」 「よろしくお願いします!」  即決でお辞儀した後、嬉しそうに右手を差し出す後輩と握手を交わすと、春彦は今さらのように名乗った。 「俺は三年A組の久世、久世春彦。君は?」 「あ、すみません後になって。一年D組沢谷(さわたに)和雪(かずゆき)です。改めてよろしくお願いします、先輩」 「うん、よろしく。ところでかずゆきのゆきってどんな字?」 「冬に降る、雪です。先輩のはるは?」 「季節の春、だよ。お互い、生まれがいつ頃か分かりやすいな」  名前にシンパシーを感じながら、春彦はどこかミステリアスで可愛い後輩が入って来たことを素直に喜んだ。
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