哀しみなどいらない

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哀しみなどいらない

思い出は、 何層にも重なって ナルミの中に存在している‥。 それらを 取り出すと瞬時に、ありありと臨場感を持って その時空に存在していた自分を体感することが 出来るのだった‥それは、 彼女だけに備わった特技なのだろうか? 再び、ナルミは 高等部在籍当時の 非常階段の踊り場での会議場に 想いを馳せてみる‥。 何しろ連絡ツールは、家の固定電話と 手紙やメモを手渡しという、ケータイ以前の 日常世界はスローで、リアルであり 奥ゆかしさが賛美されていた時代だ。 いち早く、ポケベルを持っている男子もいたが ナルミやマリコ達の親は、ふだん 塾や習い事や部活のない日は 午後6時の門限を設けているくらい 古風な風紀を娘たちに押し付けていて、 その点についてだけは至って頑固な親達なのだった。 迷ったあげく、思い切って 片思いしていた先輩に、電話をかけた事があった。 呼び出し音がツゥルルツゥルル‥と鳴る間、 受話器を握りしめて‥12回呼び出し音は鳴って、 結局、繋がらなかった。 その間、身体中が心臓になったかのように ドクドクと鼓動していた‥、 繋がったところで、慌てて 電話を切ってしまったかもしれないほどに。 やがて2年後、 いわゆるエスカレーターに乗って、晴れて 系列の大学へ進学したナルミとマリコ達は、ある日 ウキウキした気分で 学校帰り、繁華街に繰り出した。 目抜き通りの歩道は 初夏の陽気に溢れて、老若男女が行き交い、 この世に憂いが存在していることなど 微塵も感じさせない。 女のコばかりでお喋りを楽しむ時は、カフェ 『printemps』、 男のコとの待ち合わせは、ジャズがいつも 店内に流れている『Bambi』が定番だった‥。 店を出て、マリコ達と別れた直後のことだった。 ふと、これだけ人が溢れて歩いているのに ほとんど知らない人ばかりなんだな、と 妙な感動を覚えて すれ違う人波をかき分けていた時、そこで 見覚えのある顔に出会った‥、 その顔も私の視線に、気がついた。 高校時代から、ナルミが密かに憧れていた、あの 2年先輩のタカシだった。 ナルミはお気に入りの、 白いシャツ襟のついたワンピースを着て それにぴったり合う、素敵なグリーンの サンダルを履いている。 私の好きな服、で再会できたことは 神様に感謝したいぐらいだった、、 「‥久しぶり。見違えるところだったよ。元気?」 あの繋がらなかった電話で遂に、 伝えられなかったことを、 伝えるチャンスかも知れない、 まして彼も、私を覚えているなんて‥。 「先輩、留学されたって聞きましたけど、 帰国されてたんですか? ‥あの、もし良かったら、アメリカの大学の話とか、 聞かせて下さいませんか?」 「一昨日、ちょっと帰って来たんだ。 僕もちょうど今、時間があるよ。キミも留学とか、 考えてるの?」 「私はなんていうか理由があって、家を離れることが 出来ないんですけど、でも興味は‥」と 言いかけたところで、人混みの真ん中、は 何だよね?との暗黙の了解で、 ナルミとタカシは同じ方向に、歩き出した。 『Bambi』で小一時間、夢中で彼の話を聞いた後、 ついにナルミはタカシにこう言った‥、 「‥あの‥私、もっと先輩のことが 知りたくなってるんですけど、駄目でしょうか?」 「‥そうだね?僕もそうだよ。 そうしよう、これから‥。」 彼は案外、あらかじめ決まっていることを 確認するかのような口調だ。 その後、張り切って私は 短期のバイトをいくつか、こなして 携帯電話を手に入れた。 母はその頃から、 「ナルミちゃん、なんだかふてぶてしくなった‥。」と言ったりもした。 「誰の影響かしらね?」 ナルミは反論こそしないが、 考えてみれば昔から ママの言いつけなど、とっくに聞き流しているし、 こうして、彼女の思惑など振り切って 人混みに紛れて屈託なく振る舞い、今や 彼女の知らない相手と連絡を取る為に 携帯電話を握りしめている。 婚約者リョウとのことは、 神様の思召し、なのだろうかと皆が思うほどに 何かと不思議な不可抗力のせいで、 話が進んで行かないようで今や、 暗礁に乗り上げている状況だ。 もはや、 ナルミは自覚していた。 私の恋の行方など、まだ何も分からない‥けれど とりあえず、心のまま進むしかない、と。 私はどうやら、言い出したら後には引かない性分 のようだ、と。
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