1話

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1話

 “人魚”の世話をするのはいつもあたしの役目だ。  周りには呆れられるけど。  ――別に、呆れるほどお人好しだとか、まったく善良な気持ちからそうするわけではない。  強烈な陽射しこそ避けられるものの、狭くはないキャンパスのどこにいても、蝉が全力で鳴いているのが聞こえた。暦を見るまでもなく、八月の夏真っ盛りだということを否応なしに突きつけてくる。  長い夏休みの期間中、ほんの数日とはいえ、某授業のために数日大学へ来なくてはいけなかった。よりによって二限、昼前の一番暑いとき。しかも一コマだけなので、帰るときにはめでたくもっとも暑い時間帯だ。  教室の中は、五百ミリペットボトルをラッパ飲みする、うちわや扇子で扇ぐ学生でいっぱいだった。  でもその中に“人魚”の姿はなかった。  あと三分で講義がはじまるというときになって、人魚はようやく教室に姿を現した。はじめて足を得て陸地を頼りなく足で歩くかのごとく、危うい足取りでふらふらとあたしのもとに近寄ってくる。 「――おはよ」 「……」  声をかけても挨拶が返ってこないのは、別に無視してのことではない。ただ、既に消耗しきっていて口がきけないというだけのことなんだろう。いつもは血の気を感じないほどに白い肌は太陽光にいじめられたせいで真っ赤になり、目の焦点が危うい。  あたしは自分のバッグをあさり、本来は熱をさますために使うシートを取り出し、素早く人魚の額に当ててやった。それから凍らせて持ってきてあった水の五百ミリペットボトルを真っ赤な頬に当ててやる。  ぴくりと弱い反応がかえってきたが、人魚はすぐにほうっと息を吐いて、冷たさを堪能するようにペットボトルに頬をすりよせてきた。  教室にいた他の学生がちらちらと視線を送ってくる。もちろん、人魚に対してだ。 「……あり、がと、マサちゃん」  人魚がようやくそうつぶやいた。ようやく少し動けるようになったらしく、あたしが頬に当ててやっていたペットボトルをのろのろと受け取り、キャップをひねろうとする。  が、開かない。焦って何度もやるが、手に力が入らないらしい。あたしは仕方なくキャップも開けてやった。  それで人魚はようやく水分補給した。人魚はなぜか、水以外の飲み物をほとんど口にしない。ものすごい量の水分をとるくせに、スポーツドリンク系もだめだ。  ふいに、いま人魚がごくごく飲んでるやつのラベルに、深海からとれた水、みたいなことが書いてあることに気づいた。  人魚が海の水飲んでる。  そんなことを考えてしまい、なんだか笑ってしまいたくなった。  人魚はペットボトルの半分ほどまで一息に飲み干したあと、ふうと息をついた。それからCMあけのアナウンサーみたいににっこり笑って、言った。 「おはよう」  ようやく、挨拶を返せるぐらいに回復したらしい。  周囲でかすかなざわめきが起こったような気がする。――たぶん、数名の男子によるもの。よくあることだ。  人魚――本名・飯田りりかは、絵本の中から出てきたのではないかというぐらいの浮世離れした美少女だった。  天然の茶髪、完璧な配置の目鼻や唇、肌の白さなど素材がよすぎて並の雰囲気美少女では太刀打ちできない。  だいたいの女子は、りりかの側に立つのをいやがるらしい。  本心はともかくなんであたしが平気かというと、外見でりりかにマウントをとろうなどと思ったことはないからだ。  暗い茶髪のショート、高校時代は陸上部だったために焼けた肌、これといって特徴のない平凡な顔立ち、女らしいというよりは少年みたいと言われる痩せた体では、同じ俎上にのぼることすらない。名前すら、向こうは飯田りりかなんてきらきらした響きで、こっちは喜志田マサミなのだ。 「あっそうだ。マサちゃん、昨日の講義のノート見せて」  悪びれた様子もなく、りりかは言った。無邪気としか言い様がない様子だった。  一瞬、あたしは胸のあたりで何か黒く尖ったものを感じた。  ――りりかが昨日講義を休んだのは、彼氏とのデートを優先したからだ。たぶん彼氏にワガママを言って向こうにも休ませたんじゃないかという気がする。  皮肉ってやりたくなったが、実際にあたしがしたことといえば、いかにも仕方ないなあという感じの苦笑いをしてノートを差し出す、ということだった。  ありがとー、とりりかは屈託なく笑って受け取り、もうすぐ講義がはじまるというのに写しはじめる。  その様子を見ながら、あたしの頭の中に、他の友人達の憤然とした声が反響していた。  ――どうしてそこまでしてやるの、と怒る声が。  気づけば、あたしはもう大学二年生になる。このあいだ入学したばかりだと思っていたのに。  新しい生活。憧れの女子大生。ずっとやってた陸上を引退して、つらい受験生活も乗り越えて、希望と期待で胸がいっぱいだった一年前が、まるで別世界のことのように思える。  中高と陸上部に所属したことに後悔はない。楽しかった。でも今度はまったく新しい自分になろうと思った。大学デビューといえばそうだったのかもしれない。  ――女として見られない自分を、高校と一緒に卒業すると決めていた。  よくいえば引き締まった、悪く言えば痩せぎすの体と日に焼けた肌、ばっさりと短くした髪。日焼け止めこそ塗っていたけどメイクなんてしたこともなく、スカートなんてものも穿いたことはない。  ずっと、女らしくするのは恥ずかしかった。似合わないって思われたら、笑われたらどうしよう。それなら何もしないほうがいい。あたしそういうキャラじゃないし、とでかい声で笑って、性別を意識させない明るくて楽しいキャラを通してきた。  でも、いいなと思う男子や、はっきりと好きになる相手もいた。同じ陸上部の男子。軽音楽部のベースだった男子。生徒会所属の先輩。  けれど悪気のない態度、言葉の端々に、お前は楽しいし良い奴だなと褒めてくれるたびに、自分は女としては見られていないのだと感じた。  実際、告白してもっと惨い現実を突きつけられたこともある。 『いや無理。そういうふうに見れないっていうか、見たことない――』  あたしが告白し、振られた男はしばらくして別の子と付き合うようになったが、あたしとはまったく違う、長い髪に白い肌に、メイクも制服アレンジも決まった女子だった。  つまりはそういうことだ。  幸い、入った大学に知り合いはほとんどいなかった。だから、新しくやり直そうというあたしの決意はすんなり実行に移すことができた。  服とバッグと靴を一新し、メイクを練習し、髪を染めてピアスもあけた。  女性はよく蝶に喩えられる。垢抜けない蛹が一気に羽化して蝶になる、というやつ。たぶん、あたしもそのたとえが少しはあてはまるぐらいには変わったと思う。  大学で見かけるセンスのいい女子たちにそこまで劣等感を抱かずに済んだし、入学してすぐにできた友だちには、マサミはすごいオシャレだよね、センスいいよね、なんて言われることが多かった。茶色の頑なな蛹でしかなかったあたしは、いくつかの色を持った蝶にはなれたのだ。  少しは自信がついたし、高校とは比べものにならない規模の人数が集まっているせいか――気になる異性が現れるまで、それほどの時間はかからなかった。   “人魚”――飯田りりかとの出会いは、その少し後になる。  蝶になったところで、人魚にはかなわないと思い知らされるまで長くはなかった。  二限の九十分をなんとか乗り切ったあと、早々と帰る学生は多かったが、もう少し教室に残る学生もいた。  夏休み中とはいえ、どこかの学科のどこかの授業が常に何かしら講義を展開しているらしく、いつもより終わる時間が早いとはいえ、食堂も開いているらしい。  あたしは人魚(りりか)の頼みで、食堂に行くことにした。エアコンのせいですっかり乾燥してしまった、というのがりりかの言い分だった。朝ご飯は食べてこなかったみたいなのに、空腹よりもそちらのほうが気になるらしい。  いろいろな意味で常人離れしたりりかを見ていると、本当に陸にあがってきた人魚なんじゃないかと思わされる。 「あっつーい」  がらがらの食堂に入ってテーブル席に腰をおろしたとたん、りりかはぐったりした。  朝渡した水のペットボトルはとっくに空になっている。 「動けないよぉ。マサちゃん、アイスお願い!」 「ええ? ご飯は?」 「いーのいーの、アイスー!」  りりかの態度はほとんど駄々っ子だった。あたしはやれやれという態度で席を立ってストロベリーアイスを買いに行った。  ご所望のものを渡すと、りりかは子供みたいに嬉しそうな顔をしてぱくつきはじめた。  あたしは向かいで、氷入りのアイスウーロン茶を飲みながら冷めた目で目の前の相手を観察した。  飯田りりかが“人魚”なんて呼ばれるようになったのは、その絵本から出てきたような美少女っぷりのみならず、数々の天然すぎる言動による。  端的に言えば“自分ファースト”。よくいえば無邪気、悪く言えば無神経。  りりかは他人にいやがらせや嫌味を言うことはない。一見、意地の悪いように見える行動は、単に素なのだ。悪気がないという言葉が正解になる。  他人と打ち解けられず、だが本人は不思議そうにするばかりで、まるで人間界のあれこれを知らない、はじめて陸にあがった人魚のお姫様みたいだと思えばしっくりくる。  りりかにまともに付き合ってるのは、きっとあたしだけ。  ふいにりりかのスマホが着信音を響かせた。りりかはすかさずバッグからスマホを取り出し、画面を見るとぱっと顔を輝かせる。 「あ、キョウ君からだー♪ キョウ君も今日講義だったんだって!」 「……キョウ君? 誰?」 「りりかのダーリンだよ!」  りりかはご機嫌に言った。……あたしは寸前のところで眉をひそめそうになった。りりかの元彼名簿は常人より遙かに長いが、これまたあたしの知らない名前だ。 「一週間前、松崎君と付き合いはじめたばかりじゃ?」 「別れたよ。松崎君うざかったんだもん。りりかを束縛しようとするんだよ、何様って感じ」  ぷう、とまた人魚姫(、、、)は頬をふくらませる。その表情が、あたしの中の黒いものをまた刺激した。  ――束縛もなにも、りりかが奔放すぎて、数多い元彼は、嫉妬や疑いで軽く病んだ男も少なくない。  でも、あたしは何も言わない。顔にも出さない。 「デート♪ デート♪ よかったあ、ご飯おごってもらおー」  お姫様は上機嫌に言って、席を立つ。そこで、はっといったん止まった。 「えっと、マサちゃん……」  ちょっとだけ困ったような顔であたしを見てくる。あくまで、ちょっとだけ(、、、、、、)。  講義が終わって帰ろうとしたあたしに、お腹が空いた喉が乾いたと駄々をこねて食堂に引っ張り込んだのはりりかだ。なのに、彼氏からの連絡があったとたん迷いなくそっちを優先しようとする。  実に飯田りりからしい。  でもいまは、少しためらいを覚えるようになったらしい。  ――これは進歩(、、)だ。  あたしは皮肉な笑いにならないよう、注意して気さくな笑い方をした。 「いいよ、行ってきなよ」 「! ありがと! じゃあまたね!」  あたしが許したとたん、お姫様はぱあっと顔を明るくして一欠片のためらいを蒸発させた。鞄を肩にかけていそいそと食堂を出て行く。甘ったるい香水の残り香が鼻についた。  そのまま自分も帰るのもなんとなく癪で、あたしは自分にアイスを買った。ただしストロベリーではなく、チョコだ。――ストロベリーもバニラも甘すぎる。 「ちょっと、マサミ!」  席に戻ると、そんな声をかけられた。気づけば、先ほどまでりりかと座っていたテーブルに友人達数名が寄ってきていた。 「まーたあいつの面倒見てたわけ?」 「……まあ、うん」 「お人好しすぎるでしょ! なんであんな女なんか!」  友人達はブーイングをしかねない勢いだった。憤慨する友人の中には、飯田りりかに彼氏を盗られた、なんて人がひとりやふたりではない。相手に彼女がいようがなんだろうが、りりかは自分の気持ちに対して正直で、その他のことなど省みない。  友人達の怒りはそれだけではない。口に出しては言わないけど、ちらちらとこっちをうかがう目や仕草がもっと雄弁だ。  ――マサミの片思い相手だって奪われたのに、と。  あの子も悪気があるわけじゃないから……という濁した答えは、もちろん嘘だ。りりかの仕打ちを忘れられるはずもない。  小野木カケル。  あたしが大学に入ってはじめて好意を抱いた同級生だった。  入学直後の、あの誰とでも仲良くなれそうな、みんながみんな知り合いや友人をつくろうとする独特の雰囲気の中で、小野木とは陸上部の話で盛り上がった。  そこそこ明るくてそこそこ垢抜けてて、ほどよく気さく。  身勝手な言い方をすれば、小野木はあたしに釣り合った相手だったと思う。付き合ってんのとひやかされることもあれば、お互いに憎からず思っていた微妙な距離感だった。  ――あたしには、今度こそ、という思いがあった。大学に入って、あたしは新しい自分になった。女に見えないなんて言われるような自分を脱ぎ捨てて蝶になった。  だから。新しい自分と証明するためにも――できれば、向こうから告白してきてほしい。それだけの魅力がある女なのだと実感したかった。  そんなふうにまごついていたのを、機を逸したと見るのか、元からだめだったと見るべきなのか、いまとなってはもうわからない。  ともかく手をこまねいているうち、飯田りりかとのファーストコンタクトがあった。  当時はまだ、飯田りりかはとびきりの美少女という外見のよさにみなが目を奪われていて、その性格までは注目されていなかった。  あたしもまだ、こんなに鬱屈したものを抱えていなかった。りりかの美少女ぶりに気圧されはしたが、誰とでも仲良くなりたいという気持ちが持続したまま、りりかと接した。  友だちがいないりりかからすれば、あたしのような外見が正反対で世話焼きの女というのはきっと便利だったのだろう。講義や昼食を共に過ごすことが増え、りりかはあたしに甘えることを覚えた。  そしてその甘えは――あたしから小野木を奪っても大丈夫だという認識を植え付けてしまったのかもしれなかった。  冷静に振り返れば、別に付き合ってもいなかった相手を奪われたと非難するのも少しおかしいかもしれない。 『マサちゃん、私、小野木くんいいなって思ってるの』  りりかはある日臆面もなくそう言って、あたしを愕然とさせた。あのときのかっとなる感じ、苛立ち、怒り、焦り、嫉妬いろいろなものが混じった感情。 『マサちゃんも小野木くん好きなんだよね、そしたらりりかも気になってきちゃって……』  皮肉や嫌味ではなく、マウントを取るでもなく。それは、真正面から宣戦布告されたようなものだった。りりかはあたしが小野木に好意を抱いていることを知って、それが引き金になったと口に出しさえした。  すうっと血の気がひいていった、あのときの冷たい感覚。その直後、ぶり返すようにかっと頭に血がのぼった。  なんでそんなこと言うの、無神経、などとあたしは怒った。りりかとこれだけ仲良くして、ほとんど唯一の友人だというのに、その友人の片思い相手を奪うようなことをするのか。かなり感情的にまくしたてた。 『だってりりかも小野木くんのこと好きになっちゃったんだもん。何がいけないの?』  りりかは煽るのではなく本当に不思議そうに、むかつくほど正直にそんな反応をした。  たぶん、たとえ相手が既婚者でも同じことを言うだろう。そんな気がした。  ――実際には、勝負になんてならなかった。  小野木が好きとあたしに宣言してからの、りりかから小野木へのアタックはわかりやすすぎるものだった。  あたしは焦ったし、とにかくもう小野木に告白しようとした。でも――既に遅かった。  告白しようとした、あの十二月の一限目。  あたしが見たのは身を寄せ合い、手を繋いで歩く小野木とりりかだった。  りりかほどの美少女から迫られて、嬉しくない男はいないんだろう。蝶では人魚に対抗できないのだ。  それだけならまだ辛うじて、あたしは人魚と疎遠になるだけで済んだかもしれない。  でも――そうはならなかった。 『小野木くんね、マサちゃんのこと好きだって。気の合う友だちって言ってたよ』  無邪気な人魚姫は、小野木を虜にしたあとであたしにそう言ったのだ。  あたしは激怒通り越して、愕然とした。  無神経とかいうレベルじゃない。しかもりりかは、あたしを嘲笑おうとしてそうしているのではないみたいだった。  本当に、相手がどう思うかというのかというのがわからない(、、、、、)のだ。  ――だから。  小野木をあたしの目の前で奪っておきながら、あたしとこれまで通り友だちのような関係でいられると思っているのだ。  あたしの態度が素っ気なくなっても、無視に近いものになっても、「どうして?」と心底不思議そうな顔をしてまとわりついてくるのだ。奪った小野木もすぐに捨てて、その次も次もと寄せては返す波みたいに彼氏が頻繁にかわる中で、人魚の中ではすっかり過去になってしまったのかもしれない。  これまでと同じように、あたしを他の友人とを繋いでくれる橋として、よく面倒を見てくれる保護者みたいな存在として見ているのだ。  自分は何も悪いことしていない――そんな顔で。  人魚姫。賞賛あるいは揶揄まじりにりりかを言い表す言葉は、確かな実感を持った。  きっとこの美しい人魚姫は、人の世界の音も聞こえない、光も届かない深い深い海の底の別世界からやってきたのだ。だから人の常識や良心がわからないのだ。  ――そうでも思わなければ、こちらが飯田りりかを理解できなかった。  あたしは冷たいコップに手を触れた。氷をたっぷり入れた水。いくつかの氷ごと口の中に流し込んで、奥歯で噛み砕く。冷たさが染みる。 「……人魚(あの子)もね、話せばわかると思うんだ」  言うと、友人たちがまた憤慨する。あたしはいかにもお人好しそうな笑みをつくった。  ――そう。人魚のままでは、人の怒りや恨みをぶつけてもきっと理解できない。  先ほどのりりかの反応。新しい彼氏の呼び出しに嬉々として応じる前に、一瞬不安そうにあたしをうかがった。  いい兆候だ、とあたしは笑いたくなる。人魚は、以前に比べて、人の顔をうかがうということをするようになっている。人間に近くなっている。  周りは、あたしがりりかを許したとんでもないお人好しだと思ってる。思い人をとられても、前にもまして世話を焼いて仲良くしてるのだと。  ましてやりりか本人はあたしが怒っていたことを理解できていないのだ、前よりも仲良くなれた、よく世話を焼いてくれて便利だとさえ思っているだろう。猛暑をふらつきながら進んだ先、暑い顔に冷却シートを乗せて凍ったペットボトルを差し出してくれるというように。  ――すべて間違いで、都合の良い勘違いだった。  あたしが世話を焼くのは、あたしに依存させ、あたしがいなければ何もできなくさせるためだというのに。  愚かな人魚姫は自分からあたしの手の中に飛び込んできて、この手の中の小さな水たまりで泳ぐことに疑問を持たなくなっている。――この手はいつでも翻って、水ごと人魚姫を捨ててしまうことができるのに。 (――あたしは魔女か)  時々ふと自分の中に澱む冷たいものに驚く。  前までのあたしはこんなんじゃなかったのに。いつからこんなに冷たいものが充満するようになったんだろう。  飯田りりかが人魚なら、あたしは人魚の尾鰭と声を代償に、人間の足を与えた魔女になってしまったのかも。    けれど、冷えたものは胸の底で凝ってしまって、氷よりもずっと固く溶けないでいる。 (……りりかが悪いんだよ)  水がなくなり、氷の残ったコップを揺らす。そうしてまた、奥歯で冷たい塊を砕いた。  
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