第一章 三桁

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 兄がエンジンをかけます。僕は助手席でシートベルトを締めました。  年季の入ったクラウンが車道に出ます。  兄の運転は静かです。他の車にも、歩行者にも、同乗者にも気を配ります。あらゆる人間の間合いをすり抜けるようです。  東海道に出ました。車は東へと向かいます。 「八百徳(やおとく)ではないのですか」  行きつけのうなぎ屋はここから西にあります。浜松の街中です。 「寄るところがある」 「何か用事ですか」  お腹が空いているならば後にすればいいのに。 「働き口が見つかったぞ」 「降ります」  シートベルトを外します。  兄がアクセルを踏み込みます。 「同乗者に気を配ってください」 「優二。おまえ、また奈緒(なお)さんのところへ行ったろう」  奈緒さんというのは僕の妻のことです。正確には元妻です。一年ほど前に離婚が成立ています。 「先日彼女の誕生日でしたから」 「誕生日に金を無心するやつがあるか」 「プレゼントを買わなくてはなりませんし」 「本人から借りた金でか」 「お金にきれいも汚いもありません」 「今どのくらい残ってるんだ」 「七三二円です」 「プレゼントは何を買った」 「買いそびれました」 「働いて返せ」 「うなぎというのは嘘だったのですね」 「後で食いに行こう。先方にあいさつをしてからな」 「騙されました」 「おまえのためだ」  大人というのは汚いものです。平気で嘘をつきます。おまえのためだといって人を働かせます。 「仕事というのは何ですか」  僕に普通の仕事はできません。寿命を伸ばすために普通であるというのは本末転倒です。 「俺の旧い知り合いが家庭教師を探しててな」  兄が横目に僕を見ます。 「おまえ、教える仕事は好きだろう」 「そうですね」  若人にものを教える仕事というのは特別なものです。自分より後まで生きる人間に真実を刻み込む。それはこの世に生きた痕跡を遺すということに他なりません。  さすがは兄です。僕にうってつけの仕事を見つけてきます。  働き口というのが家庭教師であるならば、僕も吝かではありません。  赤信号に引っかかります。兄は緩やかに速度を落とします。 「優二。いい加減アパートは引き払いなさい」 「またそのお話ですか」  僕は実家から来るまで五分ほどの場所にアパートを借りて住んでいます。そこを引き払って実家に住めと、兄はしつこく言いつけます。  信号が青になります。 「狭く古いですが、いい部屋です」 「家賃がもったいないだろう」 「大した額ではありません」 「そういうことは自分で払ってから言え」  ここ数年、兄は僕に構ってばかりいます。  兄は男やもめです。兄嫁は五年前に逝きました。二人の娘さんはどちらも既に家を出ています。  兄は東京近郊にマンションを持っています。しかし長年勤めた商社を定年退職してからは、月の半分以上を浜松の実家で過ごしています。  『おまえが一番心配だ』と公言して憚らぬ兄ですが、真意が別にあると僕は知っています。  兄は寂しがっているのです。弟は兄の心の機微に気づくものです。だから僕はこうして兄の相手をしてやるのです。 「兄さん」 「文句なら聞かんぞ」 「僕は兄さんのためなら何でもしますよ」  兄はため息をつきました。
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