第一章 三桁

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「ここだ」  問題のお宅は子安町(こやすちょう)にありました。  相生からは車で十分ほどで着く場所です。  しかし車を降りるまでには三十分かかりました。コインパーキングが見つからなかったのです。兄は路駐をよしとしません。また自身の愛車には、頑なにカーナビをつけようとしないのです。  先方との約束に遅れるのは構わないのかと問うと、兄は『元から遅れは見込んでいる』と当然のように答えました。僕の空腹も見込んでいただきたいものです。  兄が玄関脇のチャイムを押します。くぐもった高音が遠くで鳴りました。  表札には『稲村(いなむら)』とありました。お家は四角四面の建売です。向こう三軒両隣と同じ顔をしています。新しく清潔です。  ややあって「はーい」という人の声が聞こえ、金属製のドアが開きました。  若い娘さんでした。肩までの髪を一つに括っています。膝丈のスカートから伸びる素足が湧水のように活発です。  兄が「こんばんは」と会釈すると、娘さんは「こんばんは」と応えました。声は跳ねるように元気です。 「ひょっとして、先生ですか」 「私は違うよ。こっちが先生」  兄に促され、僕は頭を下げます。 「天川(てんかわ)優二です。よろしくお願いします」  ここに来るまでに受けた説明を思い起こします。兄の旧友である稲村氏には二人の娘さんがいるそうです。姉の美桜(みお)さんは高校二年生。妹の和葉(かずは)さんは高校一年生。僕の生徒となるのは和葉さんの方です。 「先生、妹をよろしくお願いします」  目の前の彼女は美桜さんのようです。  奥から中年の男性が出てきました。稲村氏でしょう。兄と挨拶を交わします。  美桜さんは一礼を残して奥に下がりました。  上がってすぐの和室に通されます。  兄と稲村氏が話し込みます。二人にしか分からないお話です。  お腹の虫が騒ぎます。紫紺のお座布団はさらさらとした触り心地です。床の間には墨をばら撒いたような書が掲げられています。  美桜さんがお茶を運んできました。彼女は僕のことを覗き見ます。僕も覗き返します。目が合うと、美桜さんは小さく「あ」と声を出しました。彼女は笑みを残して出ていきました。  兄と稲村氏は年金の話をしています。  一向に本題に入ろうとしません。授業の時間や教科、これまで僕が教えた生徒、そして報酬。全く触れられません。事前に話をつけてあるのでしょう。僕のいないところで。  セーターを見下ろします。紺色です。ラルフローレンです。裾に毛玉ができています。そろそろ新しいものを買いましょう。  毛玉をいじっていると、襖が開きました。  ジャージ姿の美桜さんです。髪をほどいています。細めた目で僕を見下ろしています。  稲村氏が自分の横に座らせます。 「初めまして。稲村和葉です」  美桜さんではありませんでした。顔がよく似ています。最初、美桜さんが着替えたのかと思いました。  稲村氏が僕を先生だと紹介します。 「よろしくお願いします」  和葉さんはくぐもった低い声で挨拶をしました。 「天川優二です。こちらこそ、よろしくお願いします」  僕を見た和葉さんが顔を引きつらせます。彼女なりの笑顔のようです。  稲村氏が和葉さんの紹介をします。通っているのは県立城北高校。成績は中の下。伸び悩んでいます。中学では陸上をやっていました。高校では部活をしていません。  城北高校は県内屈指の進学校です。僕と兄の母校でもあります。  話が美桜さんに及びます。和葉さんと同じ城北高校の二年生。成績は上の上。目指すは旧帝大。陸上部では全国大会に出場。生徒会役員。稲村氏は喜々として語り続けます。  和葉さんはお茶を見ています。 「私と優二も城北なんだ。和葉さん、学校は楽しいかい」  兄が軌道修正を図ります。 「楽しいです」  和葉さんが答えます。訃報を告げるような声です。 「それはよかった」  お悔やみを申し上げるような声です。兄は場を盛り上げる才に欠けています。 「僕は何を教えればよいのですか」  早く話を終わらせましょう。お腹が空きました。  稲村氏が答えます。見て欲しいのは数学と英語。成績を伸ばすのに時間のかかる教科です。一年生のうちに力を入れるのは正しい判断でしょう。 「数学も英語も得意だったな」 「はい」 「これまでに城北生を教えたこともあったな」 「五人ほどですね。カリキュラムも把握していますよ」  それは頼もしいと稲村氏はご満悦です。先生娘をよろしくお願いしますと頭を下げます。  和葉さんはお茶を見ています。  稲村家を辞します。辺りが暗くなっています。 「難しそうな子だったな」  兄が呟きました。クラウンにキーを挿し入れます。 「とても可愛らしい姉妹です」  兄が僕を見ます。 「そうだな」  兄は小さく笑いました。
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