第一章 三桁

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第一章 三桁

 口座の残高が三桁になっています。  目の前のATMには硬貨の払い出し口がありません。  窓口なら引き出しできるのでしょうか。  できたとしても三桁です。  お金は寿命です。  死との距離です。  これでは死ぬしかありません。  昨日までは四桁だったはずなのです。  何かしらの公共料金が引き落とされたのでしょう。  財布には八六二円しか残っていません。  公共の福祉が僕に『死ね』と告げています。  少し前まで残高は七桁ありました。  二年前、母の遺産が僕の口座に入ってきたのです。  母は長らく病院の床に臥せっていました。特にこれといった患いがあったわけではありません。老衰による多臓器不全です。次第に意識のある時間が短くなっていき、最期は眠りに就いたまま目を醒まさなくなりました。幸せな末期です。  父はずいぶんと前に亡くなっています。もう四十年も前のことです。どう死んだかは覚えていません。  未亡人となった母は、父の遺産で生きてきました。次は母がそれを遺す番だったのです。  郵便局から外に出ます。  コートを羽織ります。バーバリーのダッフルです。寒気は通しません。しかし顔はむき出しです。  一月は止まったように冷たい季節です。  遺体もしばらくきれいなままでしょう。  醜さを撒き散らさずに済みそうです。  空は灰色です。  僕の煙はすぐに見えなくなるでしょう。  少し残念ですね。  生きたからには、何かしらの証を世の中に残したいものです。  携帯電話が震えました。 「もしもし」 「ああ。優二(ゆうじ)か」 「兄さん。何かご用ですか」  兄・正一(しょういち)とは年が離れています。父が死んだとき僕はまだ十二歳で、兄は二十七歳でした。爾来、兄は僕の父親代わりを自任しています。兄とはけんかをしたことがありません。叱られることならしょっちゅうですが。 「今どこにいる」 「道を歩いています」 「ちょっと相生に来なさい」 「生憎と今手が離せなくて」 「久しぶりにうなぎでも食おう」  母が他界したとき、相生町(あいおいちょう)の土地と、そこに建てた家とは兄が相続しました。兄は『長男だから責任がある』と譲りませんでした。浜松市街地からほど近いところにある土地です。売ればそれなりの額になるのではないでしょうか。  僕は現金を受け取りました。本当なら八桁と少しもらえるはずだったのですが、兄は僕にその半分しかよこしませんでした。残りは僕の妻子の手に渡りました。『おまえはすぐ遣ってしまうから』と兄が按分を決めたのです。勝手な話です。  相生町の実家はモルタル塗りの一軒家です。以前は木造建築でした。十五年ほど前に建て替えました。 「ただいま帰りました」  玄関の三和土には兄のウォーキングシューズがあります。 「おかえり」  キッチンの換気扇の下で、兄は煙草を吸っていました。僕もそれに倣おうと近づきます。  が、兄はまだ長く残った煙草を灰皿に押しつけました。 「出かけようか」  兄がキッチンから出ていきます。 「慌ただしいですね」 「腹が空いたよ」  僕にも異論はありません。
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