第二章 五桁

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第二章 五桁

 稲村家に通う日々が始まりました。  授業は週に三回。一回は二時間です。英語と数学で等分するようにしています。同じ教科を二時間続けるのでは集中力が摩耗します。効率が悪いのです。  授業は応接間で行います。顔見せのときに通された和室です。  和葉さんは同年代に比べてできのよい方です。学校での成績は中の下ですが、それは周囲のレベルが高いのです。 「どうせわたしできないから」  和葉さんの口癖です。彼女は周りと自分を比べます。 「和ちゃんはやればできる子だよ」  美桜さんは顔を覗かせる度にそう言います。  僕は教えるプロです。和葉さんの成績が伸びない原因はすぐに分かりました。  単純に勉強が足りないのです。  城北高校は県内屈指の進学校です。姉の美桜さんはその中でもトップクラスの成績を誇ります。実績は勉強時間という礎の上に築かれます。それを和葉さんは理解していません。自分ができないと思いこんでいます。実際はやっていないだけなのです。美桜さんの指摘は正鵠を射ています。  指導の方針は明確です。とにかく勉強をさせます。毎回山のように宿題を出します。和葉さんは部活に参加していません。時間はあるはずなのです。彼女の時間を勉強の二文字で埋めること。それが僕の仕事です。 「今日の宿題はこれだけです」 「無理です」 「できます」 「嫌です」  和葉さんは素直で真面目な生徒です。宿題は毎回欠かさず終わらせます。  和葉さんは楽な生徒ではありません。和葉さんには基礎学力があります。理解の抜け漏れはありません。城北に通うだけのことはあります。ちょっとしたコツを掴んで飛躍的に成績が伸びるといったことはありえません。  実のところ、できない生徒の方が楽なのです。少しでも伸ばしてやればそれが僕の功績になるのですから。 「先生、どうぞ」 「いただきます」  日に一回はこうして美桜さんがお茶を持ってきます。 「お姉ちゃん、すぐ邪魔しにくる」 「だって和ちゃんがしっかりやってるか気になって」 「やってるよ」  和葉さんがむくれて見せます。 「先生、これまで何人くらい教えてきたんですか」  いつもこうして雑談が始まります。大抵十分ほどです。和葉さんの息抜きにちょうどよいので許容しています。 「家庭教師では二十人くらいでしょうか」 「すごい。それ以外もあるんですか」 「塾では何人教えたか数えきれません」 「ベテランですね」  美桜さんは反応の大きな娘さんです。僕の答えにいちいち目をまるくします。 「和ちゃん、おまんじゅうまだあるよ」 「いいよ。太っちゃうし」 「もっとお肉つけた方がいいよ」  美桜さんが和葉さんに抱きつきます。  和葉さんは「もう」と口をとがらせます。 「お二人は仲がよいのですね」 「もちろんです」  美桜さんが笑います。 「お買いものも行きますよ。文房具とか小物とか、お揃いの買ったり」 「お姉ちゃん可愛いの好きだよね。さくらんぼのリップとか」  美桜さんが頬を膨らませます。 「どうせ子どもっぽいですよ」 「キュートだよ」 「もう」 「ごめんて」  二人はいつもじゃれ合っています。  美桜さんが出ていくと、和葉さんの顔にしわが現れます。 「ほんと邪魔」  うら若き娘さんのする顔ではありません。 「和葉さんはお姉さんとよく似ています」 「似てるなんて言われたことないです。雰囲気違うでしょ」  和葉さんが鼻で笑います。 「最初見分けがつきませんでした」 「嘘」 「髪の長さが同じです」 「切ろうかな」 「顔のつくりも同じです」 「全然違いますよ。笑い方とか」  和葉さんが和葉さんなりの笑みを浮かべます。 「自分で知ってます。わたし、どうしても引きつっちゃう」 「それは筋肉の使い方の問題です」 「使い方って」 「肉体は器械です。同じ形の絡繰なのですから、同じ操作をすれば同じ挙動を示します」 「わたしが下手だってことですか」 「そうです」 「ひど」  和葉さんが顔をしかめます。 「前向きに考えましょう。習熟すれば同じ笑顔ができるということです」 「別に真似したくないし。ていうかできないし」 「同じことができないのだとしたら、それは和葉さんの個性ですよ」 「だからそれが嫌なんですって。うまく笑えないのが。そもそもほんとに同じ顔してますか。信じらんない」 「視覚情報に引きずられているのです」 「顔って見るものでしょ」 「目を閉じて触り比べれば分かりますよ」  和葉さんが身を仰け反らせます。 「きも」 「後で感想を聞かせてください」 「やりませんって」  後日、和葉さんが報告してきました。 「ほんとに同じ形でした」 「視覚は騙しやすいものなのです」 「こんなはっきり見えてるのに」 「だからです」  和葉さんが訝しみます。 「信じているから騙されるのです」
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