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第1話 はじまり
「モトヒコ君!」
ちえ子先生の一言で、5年2組のクラス中がどっと笑った。
あぁ最悪。今日は何度目だろう、また先生に注意されてしまった。しかも気になる存在のイクミちゃんまで、ボクを笑ってるなんて……。
でも、ぼーとしてるからっていう先生の指摘は間違いだ。ただ、いろいろ考えなくちゃならないことがあったから。だから少しだけ授業に集中できなかっただけ。まぁ、元はといえば、ボクが叔父さんの大切な研究標本をあやまって壊してしまったのが原因なんだけど……。
*
ボクの叔父さんは大学の研究室で地質を研究する仕事をしている。あまりよくはわからないけど、地面の中を調べて世の中の役に立つ物質があるかどうかを調べたりするものらしい。
その週の日曜日、ボクは母さんに頼まれて、そんな叔父さんの仕事場までお使いにやってきた。日曜日なのでインターホンを通じて守衛さんに裏門の鍵を開けてもらい、中に入って自転車を停める。そして広々としたグランドを、てくてく横切ると3階立ての古い建物が見えてくる。その中に入り、階段を上がって長い廊下を一番奥まで進んでいくと、そこが叔父さんの研究室。通い慣れたお使いの道のりだ。
「叔父さん、こんちは」
「よう、モトヒコか。よく来たな」
部屋の中は相変わらず足のふみ場もない。大きな窓も日の光を取り込むのにひと苦労といった感じに本や資料にふさがれている。まるでゴミ屋敷だ。
「やぁ、モモ」
部屋のすみに置いてある古いソファの上では、叔父さんの飼い猫のモモが体を伸ばして、大きなアクビでボクにあいさつをする。
「母さんが、『仕事ばかりしてないで、たまにはうちにご飯を食べにきなさい』ってさ」
ボクは母さんからの伝言を叔父さんに伝えると、大きなお弁当を机の上……といっても、その上に山積みになっている分厚い本の上にドサッと置いた。
「そうか。『ありがとう』って、姉さんに言っといてくれ」
「日曜日なのに仕事?」
モモの横には、くしゃくしゃにした毛布が小山のようにかためてあった。叔父さんは昨日も自分のアパートには帰らなかったんだ。
「あぁ。実は研究用に新しい地質標本が太平洋から送られてきたんだ」
「えっ、太平洋? それって海じゃん。そんな所に土なんて」
「正確には海の底。深海の地層さ。オレも初めて見るとても珍しいものなんだぞ」
「すごいや!」
「伝説の古代ムー大陸の秘密がわかるかもな」
まったく、昔から叔父さんは子供みたいにロマンチストなところがあるんだから。ボクはというと、ムー大陸は大げさだけど、深い海の中で誰も見たことがないものっていうところに強く心惹かれたんだ。
「ねぇ、見せてよ」
「ダメ、ダメ」
「ちょっとだけ」
「冬前には隣町の国立博物館に展示されることになってるから、そのときに見るんだな」
「それまで待てないよ」
「これはすごく貴重な標本なんだから、ダメって言ったら、ダメだ」
「なぁんだ、つまんないの。ちえ子先生の様子を教えてあげようと思ったのに」
「えっ! ち、ちえ子先生の……」
「知りたくないの、最新情報だよ。スマホやコンピューターなんかじゃ、調べたって、わかんないよ」
「大人をからかうなよ」
ボクは別に叔父さんをからかってなんかいない。去年、理科の授業を叔父さんが小学校に手伝いに来てくれたことがあった。出前授業っていうやつだ。そのときから叔父さんは、ちえ子先生のことが気になってるってことくらい、いくら鈍いボクにだってわかる。その証拠に叔父さんの声は少し高くなっているのに、すぐに気がついた。
「最近、髪を切ったよ、先生」
「えっ、髪を切ったのか……」
ボクの言葉に、叔父さんの顔はにやけて、その視線はボクの顔を通り越してどこか遠くを見ている。
「ねぇ、なに? どうしたの?」
「んっ……いや、なんでもない」
「本当かなぁ。あっ、そういえば、また理科の実験をしてもらえたら嬉しいってさ。ねぇ、標本を見ちゃダメ?」
「なんだって。『また出前授業をしてほしい』って?! そ、そうかぁ」
「また、会えるね」
「な、なに言ってんだ。そ、そうだ。標本だったな。じゃぁ、ちょっとだけだぞ。大切にあつかえよ」
よし、作戦成功!
叔父さんは古いソファの横にデンと置かれてある大きな木箱に近づくと分厚いフタを開けた。中には雪みたいな細かい発泡スチロールに埋まり込んだ数本の長いガラスのパイプが入っているのが見える。ボクは慎重な手つきの叔父さんから手渡された、その中の一本を窓から差し込む日の光にかざしてみた。標本は茶色い泥が何層にもなって詰まっているだけだったが、一カ所だけ青白くキラキラ輝いている小さな部分があった。
「これなに? 宝石かなにか?」
「いやちがうな、たぶん。正確なところはオレにも、まだわからないよ」
「専門家でもわからないことがあるんだ?」
「だから研究する価値があるってことさ」
「すごくきれいだね」
ボクは、その青白い光に見とれていた。いや見とれすぎていたのかもしれない。だから、突然、大きな音で鳴りだした机の上の目覚まし時計に驚いたモモがボクにぶつかってきたとき、標本が詰まったガラス容器を思わず床に落としてしまったんだ。
ガッシャーン!
派手な音がした。そしてガラスが割れた瞬間、小さな青い宝石も砕けて、中から小さな青白い煙がぱっと立ち上った。
「ごほっ、ごほっ。叔父さん、ごめんなさい……」
ボクの失敗。
青白い煙を吸い込み、せき込んだボクの横で叔父さんはただただ立ちつくしていた、壊れた地質標本をぼう然と見つめながら。
*
「モトヒコ君。ちゃんと聞いてるの?」
「えっ。あっ、ごめんなさい、ちえ子先生……」
クラス中が、またどっとわいた。
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