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ひんやり屋
世界を覆うかの如く蝉の声が鼓膜にへばりつき、息苦しいまでの陽炎がゆらゆらと立ち上る真夏の昼下がり、私はこじんまりとした一軒の店の前に立っていた。
いわゆる〝看板建築〟という昭和に流行ったスタイルなのだろう。建物の正面だけがまるで仮面のようにモルタルでちゃんとした洋館っぽく造られているが、裏に回れば木造の一般的な民家様になっているレトロなものだ。
もっとも、レトロといえば聞こえが良いが、昭和に建てられたものだけあって、あちこちヒビが入ったり変色したりしていて、ずいぶんと古びたオンボロ店舗と表現できなくもない。
一見、昔ながらの喫茶店のような、あるいは古き良き時代の映画館のような印象を受ける店である。
そんな店構えを見上げ、こうしてただ立っているだけでも汗が頬を伝って熱せられたアスファルトの上へと零れ落ち、すぐさま蒸発して熱気の中へ消え去ってゆく。
それでも、青緑がかった寒色系のモルタルの壁と、店の入り口の上にかかる看板の文字を見ていると、幾分、周囲の温度が下がったかのような錯覚を覚える。
〝ひんやり屋〟――木製の看板には、そんな手書きの筆文字が無造作に躍っていた。
昨今の猛暑などお構いなく。いつものように営業で外回りをしていた私は、大通りから外れた裏道でこの店を見つけたのだ。
ひんやり屋……いったいなんの店だろうと入口のガラス窓に貼られた説明書きを覗うと、
「当店はお客様に最高のひんやりをお届けいたします」
とだけ、短く書かれている。
この猛暑の中にあって、なんと蠱惑的な文言なのであろう……なんだかよくわからないが、このまま炎天下に突っ立っているよりは幾許なりとマシなはずだ。
私は藁をもすがる思いで、未知なる涼を求めてその店のドアを開けた。
と同時に、弱々しくも冷房を効かせているらしく、若干の冷気が中から漏れ出てくる。それだけでも屋外の暑さからすれば何倍も快適だ。
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