ひんやり屋

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 ……つまり、こういうことか? すべては、お客である私にこの上ない〝ひんやり〟を感じてもらうための壮大なジョークだったということなのか?  そのブラックなジョークのためだけに、こんな大掛かりな舞台と道具までわざわざ用意しているとは……。 、 「じょ、ジョーク……だったん……ですね……ハハ……ハハハ……」  なんだか気が抜けてしまい、どう反応していいのかわからない私は、乾いた苦笑いを無理矢理に浮かべると、がっくり、力んでいた肩を落としてその場にへたり込んでしまう。 「さてさて、名残惜しくはありますがちょうどお時間となりました。もう充分、ご存知(・・・)のこととは思いますが、足元が悪いのでどうぞ気をつけてお帰りください。ああ、最後にこちら、お土産の〝ひんやり〟となります。お土産ですので、くれぐれもお帰りになってからお楽しみくださいね」  そんな私に、微笑みを浮かべた紳士は手を差し伸べながらそう告げると、ついでに一通の水色をした封筒のようなものを手渡してくる。 「はあ……これはどうも、お世話になりました……」  同じ〝ひんやり〟でも心地良い爽快な冷感と恐怖による不快な冷感、極楽にいるような安堵の心持ちと地獄へ突き落とされたかのような不安と怒り……まるでローラーコースターの如き激しい感情の起伏についてゆけず、朦朧とした頭でそれを受け取った私は、気のない挨拶をしてとぼとぼと出口の方へ向かって歩き出す。 「うっ……」  あの厚い垂れ幕を潜り抜け、靴を履いてからさらに狭いロビーを通って店の外へ出ると、強烈な夏の日差しとむせ返るような暑さ、そして、その暑さを増長させる蝉の鳴き声が一気に襲って来た。  やはり店の中と外とでは、天と地ほども温度に違いがある。  なんだかんだ言って、つい先刻までは確かに〝ひんやり〟を存分に味わっていたのであるが、一歩屋外へ足を踏み出した瞬間、そのひんやり感は一瞬にして吹き飛んでしまった。  あれがすべて悪趣味なジョークであったというのには驚きを通り越して呆れすら覚えるが、悪い冗談でもなんでも、ひんやりさせてくれるのであればこの灼熱地獄よりは何百何千倍もマシである。 「帰るまでなんて待っていられるか……」  ギラギラと照りつける白んだ太陽の日差しの下、手に握ったお土産の存在を思い出した私は、再びあの〝ひんやり〟を味わいたい誘惑に駆られ、紳士の忠告も無視してその封筒を開いてみた。
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