0人が本棚に入れています
本棚に追加
そこまで話したところで、途端に、茂みの奥から強い光が差し込んで、作業着姿の中年女性が現れた。
「あの…何かお困りですか」
「あ、この辺りの人ですか」
豊が慌てて答えた。
「ええ…」
「こんな時間に騒いで申し訳ございません。実は、車が故障してしまって…」
「あら大変。もしよかったら、うちに泊まりますか?」
「え?」
「こんな山奥で大人が4人も車中泊なんてお辛いでしょう。夫が車の修理もしておりますから、いらっしゃいよ」
「でも…」
唐突な申し出に豊が戸惑っていると、郁美が真っ先に反応した。
「いいじゃない、お邪魔させてもらうわ。どん家でも、車中泊よりかはマシでしょ」
「ではこちらへどうぞ。何かあっても困りますから、荷物は全て運んで頂けますか」
「あ、有難うございます。皆、荷物を持て」
豊敬棗はそれぞれで荷物を持ち出したのだが、郁美だけは別だった。仁王立ちのままで何もしようとせず、棗が自分の荷物と一緒に郁美の荷物も持ちだした。実は棗は、代々鷹司家に仕える使用人頭の家柄で、棗が郁美と同じ大学に放り込まれたのも、郁美の父親からの厳命だった。
「お目付け役兼護衛として、郁美と一緒にいてくれ」
体裁上お願いの形を取られていたが、事実上の命令だった。お陰で棗は勉強したいことなど何一つ存在しない私立の金持ち大学に放り込まれていた。
「全員、持ったか」
「はい」
「持ったよ」
「こんなところにいつまでも立っていられないの。早く行って」
豊は溜め息をつき、懐中電灯を持った中年女性に耳打ちした。
「失礼で申し訳ございません」
「いいのよ…」
「お名前を伺ってもよろしいですか。また後日お礼をさせてください」
「あら、随分お行儀の良い人ね…早川です。早川香夏子」
「有難うございます、早川さん」
「ついでに教えておくと、自分の名前も名乗らずに相手に名前を聞くのは、失礼に当たるのよ」
「あっ…も、申し訳ございません。更科豊、二階堂敬、鷹司郁美、新堂棗です」
「どちらの…大学?かしら」
「セントクレア大学です」
「まあ…」
早川は4人を連れて森の中の獣道のような道を歩き、暫くすると森が開けて、月明かりに照らされた一軒の家があった。
「こちらが早川さんのお宅ですか」
「いえ、ここは管理を任されている貸別荘です」
香夏子は作業着のポケットから鍵束と懐中電灯を出してドアを開けた。
「近くに有名な避暑地があってこんな辺鄙なところに建っているもんだから維持費ばっかりかかってしまうので、来週取り壊し予定です」
香夏子が貸別荘の中の電気をつけると、一流の家具が置かれた広いリビングになっていた。
「あら、いいじゃない。ここでなら、私も我慢できるわ」
郁美はきょろきょろと室内を見渡した。
「こんな綺麗な別荘なのに、取り壊すんですか?」
「何しろ維持費ばっかりかかる金食い虫で、あんなこともあったし…」
「あんなこと?」
香夏子は慌てて口を塞いだが、もうごまかしようが無かった。溜息をつき、本当は一生口をつぐんでおくつもりだった話を始めた。
「3年か4年前になるかしら。さる大企業の社長さんが、愛人との密会にこの別荘を使っていたのよね。ある時、奥さんが包丁片手に乗り込んできて、でも社長さんも格闘技の心得がある人だったから、返り討ちにしたそうなのよ。それ以来、ここに奥様の幽霊が出るって評判になって、余計に泊まる人がいなくなったわ」
香夏子は、今で4人を泊めるための準備をしながら淡々と話した。
「寝室はちょうど4つあるから、一人一部屋でいいわね。お風呂は、水色のドアと青いドアの。トイレは真ん中。食べ物飲みものは何もないけど、明日、作って持って来るわ」
「本当に、有難うございます」
「いいのよ。どうせ取り壊す予定なんだし、誰かに泊まってもらった方が家も喜ぶわ」
香夏子はいそいそと別荘から出て行った。
「さて…部屋割を決めようか」
「私が一番広い部屋に泊まるわ」
郁美は他の3人が何かを言う前に、さっさと一番広い部屋に入って、内側から鍵をかけてしまった。
「…郁美、あなたの荷物はドアの前に置いておくわ」
「……」
夏目がそう言って郁美の荷物を部屋のドア前に置いたが、部屋の中の郁美は何も言わなかった。
「有難うの一言も言えないんだな」
敬が棗の耳元でそう呟くと、棗はただ肩を竦めるばかりだった。いつもの習慣として棗は郁美の部屋隣、豊敬も隣り合った部屋に入った。
郁美は自分の荷物からタオルその他を出してゆっくりと風呂に入り、他の3人は、郁美が入浴中にもう一つの浴室でシャワーを済ませた。予定外の事が立て続けに起こったので全員疲れ果て、それこそ泥沼に沈んでいくように眠りに落ちたのだが…。
最初のコメントを投稿しよう!