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俺の名前は中村啓治。四十四歳の介護職員だ。
その日の俺は、これまでの人生の中で体験したことのない、絶体絶命のピンチに陥っていた。介護施設へ出勤途中、正体不明の男に突然拉致されたのだ。俺を拉致した男は、作業着姿にピエロの化粧をしていた。俺はそいつに全身を紐で縛られ、どこかの倉庫に幽閉された。おまけに毒まで注射され、だんだんと意識も朦朧としてきた。どうやら、俺はもうここまでのようだ。
床に横たわる俺の姿をじっくり眺めながら、ピエロの男がにやりと笑みを浮かべている。奴はリラックスした様子で、ゆったりとソファーに腰かけている。俺にはもう怒る気力もない。朦朧とする意識の中で、ピエロが俺に声をかけてきた。
「君はもう長くはないだろう。死ぬ前に何か一つ、私に懺悔しておくことはないか」
ピエロの男がそう尋ねてきた。何やら顔見知りのような口ぶりなのだが、俺には全く覚えがない。
「なん……だと。どういうことだ」
俺はピエロに質問した。これまでの人生の中で、人に恨まれるようなことは、やってこなかったはずだ。介護職員である俺は、人から感謝されこそすれ、恨まれることはない。唯一考えられることは、介護施設の利用者の死について、家族から不満を持たれることだが、こんなことをしそうな家族は全く覚えがない。
「まだ……しらばっくれるつもりか」
ピエロがわなわなと声を震わせ、キッと俺を睨みつけた。
「いいか、ここに解毒剤がある。お前さえ罪を悔い改めたら、注射してやらんこともない。そしたら死なずに済むんだぞ!」
ピエロがそういって、薬剤の入った注射器を俺に見せつけてきた。
「そう言われても……俺は……」
俺が返答に困っていると、ピエロが「もういい!これを見ればわかるだろ!」と声を張り上げ、急に衣服を脱ぎだした。
そしてピエロは全裸となった。
「さあ、私の全身を見ろ! これでわかるはずだ!」
ピエロはそう言って、俺に自分の裸体を見せつけてきた。
朦朧とする意識の中で、俺は心当たりを思い出そうと必死に考えていた。こんな変態は俺の周りにいないはずだった、が、ピエロの裸体には、妙に見覚えがあった。どこだろう……どこかで……見たことがある。
「あ……!」
重要なことを思い出した俺は、思わず声をあげた。
「ようやく、分かったのか!?」
そう言ってピエロが嬉しそうに、俺の方を見てきた。確かに俺は、こいつの裸体を見たことがあった。
あれは、三年前の夏。JR大阪駅近辺に、全裸で通行人に全裸を見せつけてくる変態が出没すると、ネット上で話題になったことがある。よく利用する駅での出来事だったため、俺はネットに出回っている写真をチェックした。非常に特徴的な身体だったため、強く印象に残っていた。間違いなくこいつは、その時の変態だ。
しかし、そうだとしても、こいつが俺に執着する意味は全く分からない。俺に変態の知り合いなどいないのだ。だが、俺の罪とやらを認めない限り、奴からは解毒剤を注射してもらえそうにない。そこで俺は、適当に奴の話に合わせることにした。
「まさか……お前はあの時の露出魔!?」
俺がそう尋ねると、ピエロはにんまりと笑みを浮かべ、首を縦に振った。
「その通り。私の名前は山田純一。露出魔だ」
ピエロはそう言って、長々と自分のエピソードトークを話し始めた。
「その日の私は、いつもの通り、全裸で大阪駅周辺を練り歩いていた。通行人はみなワーキャー言って、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。私はそれを見るのが快感だった……それだけでよかった……それなのに、それなのにお前は……お前は私を、無実の罪で逮捕した!」
ピエロが声を張り上げた。彼は鬼のような形相で、俺を睨みつけてきた。俺は後半のエピソードには全く身に覚えがなかったが、毒を盛られた状況でピエロの言葉を否定するのは得策ではないと思ったため、俺は黙って彼の言葉を聞くことにした。
「その時期の大阪駅近辺では、凶悪犯罪が多発していた。その疑いの目を、よりにもよって私にかけたお前は、一か月近くも牢屋に入れたのだ! 結局は起訴されなかったが、勤め先からは解雇され、女房、子どもも逃げていった。お前のせいだ……! ぜんぶ、お前のせいなんだよ……!」
ピエロの目からは涙がこぼれた。怒りと、悲しみと、色んな感情が頭の中でぐるぐると回っているようだった。俺は内心「いや、殺人はともかく、露出は事実なんかい」と、突っ込んだが、話がややこしくなりそうだったので、黙ってピエロの話を聞いた。
「だが、お前が自分の罪を悔い改めるのなら、私はすべて赦そうと思う。人間はみな間違える。それは私も、お前も一緒だろう?」
そういって、ピエロが菩薩の笑みを浮かべながら俺に話しかけてきた。
「そんなことのために……お前は……俺に毒物を盛ったのか?」
俺が驚いてピエロにそう聞くと、彼はにっこりと返事をした。
「安心しろ。お前に盛った薬はな、実は毒物じゃなく、単なる睡眠薬だ。お前が懺悔するところが見たくて、嘘を言ったまでだ」
ピエロは俺にそう言った。奴は満足そうな顔をしていた。
「なるほどな……だがな、ピエロ、お前に……一つだけ言わなければならないことがある」
俺がそういうと、ピエロは怪訝な表情で、俺の方を見つめてきた。
「何か勘違いをしているようだが、俺は……警察官じゃない。介護施設で……働いている……介護職員だ。なかむらけいじはなかむらけいじでもな……けいじ違いだ」
そう言った直後、あまりの睡魔に耐えられなった俺は、意識が消失した。
「ばかな……そんなことがあるはずが……」
熟睡する中村を見つめながら、ピエロがわなわなと声を震わせた。
「顔も……似ていた。声も……聞き覚えがあった。何よりこいつは、自分で自分のことを、なかむらけいじと言った!」
そしてピエロは、中村のカバンから財布を抜き出し、中から免許証を取り出した。
そこに書かれた名前を見て、ピエロは思わずひんやりとした。
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