不機嫌なバニラ

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 スカートの裾がまとわりつくのも気にせず、立ちながら自転車をこぎ続けた。  坂の頂上まで来てやっとサドルにお尻をつける。ここからは快適で、ペダルを回さなくても勝手に自転車は進んでいく。全身の汗が風に冷やされて気持ちがいい。  坂を下りきったところが目的地だ。リミットまではあと二分。うん、間に合う。 「バニラください」  路肩にピンク色のワゴン車が止まっている。移動販売のアイスクリーム屋さんだ。  女の子が背伸びをして小銭を握りしめているらしい手を伸ばしている。もう片方はしっかりと弟くんの手を握っていた。  ピンクと水色のビニール屋根の下は、車の窓を改造した注文カウンターになっている。そこから中のお兄さんが乗り出して笑顔で小銭を受け取っていた。  あ、やっとバニラアイス買えたんだ。良かったね。  私も今度こそ食べたかったのになあ。いいなあ、アイス。  学習しない私はまた食べ損ねた。いつも早く出てここのアイスを食べようって思うのに、当日になると忘れてしまうのだ。  大学の講義が終わる時間が悪いと思う。火曜日は全部の講義を午前中で取り終わるから、そのあと学食でご飯を食べて図書室でうとうとしているとこの時間になってしまう。目的地へは大学から直接向かったほうが早いものだから、怠惰な午後を過ごしてしまうのだ。時間がっていうか、私の講義の取り方が悪いんだけど。  食べたいなあ、一番人気のバニラ。 「あれ?」  ペダルを漕がなくても自転車はトップスピードで坂を下っていく。  横目でワゴンを恨めしく眺め、カウンターの横に掛けてあるランキングボードを見て思わず声を上げていた。  でも、約束の時間まではあと一分。ブレーキに手を掛けることなくそのまま坂を駆け下りた。 「来たな」  時間ぴったりに春臣くんの部屋に入るとキャスター付きの椅子をぐるりと回転させて彼が振り向く。  濡れたようにつややかな黒髪がさらさらと流れる。猫みたいに大きなつり目は女の子みたいだ。立っている私を自然と見上げる形になるから、余計にその上目遣いが可愛い。子供だから可愛いとか、そんなんじゃない。自分が小学生だったとき、クラスにこんな綺麗な子、しかも男の子はいなかった。まあ、言ったら絶対怒られるから言わないけど。  だって今日は特に機嫌が悪い。顔を見た瞬間察した。  たった数ヶ月の付き合いだけど、そのくらいのことはわかる。眉毛はつり上がってるし、机の上に残したままの指先がせわしなく動いて、トントン音を立てている。  ここまで苛立ちを表に出されたら誰だってそのくらいわかる、と思うかもしれないけど誤解しないで欲しいのは春臣くんは機嫌がいいときも大体こんな雰囲気だってことだ。形の良い眉をつり上げてにらみつけてくるし、貧乏揺すりのかわりに指先を動かしている。ただ今日はいつもより眉の角度がほんの少し鋭角だったり、指先のリズムが速かったりするから気付いたという話だ。  一週間のうちのたった二時間。私と春臣くんが会うのはそれだけだけど、部屋で二人きりになるのだから、相手の挙動には敏感になる。  それは春臣くんという少し気難しい子が相手だからかもしれないけど。 「こんにちはでしょ!」  部屋に案内してくれた春臣くんのママがぴしゃりとたしなめる。  暗い茶髪をサイドで一つに結った美人なママはこういう礼儀に厳しい。春臣くんの態度が横柄な中にも品があるのはお母さんのしつけのたまものなのかなって思ったりしている。  私の実家はもっとおおらかで、悪く言えば雑で、友だちを呼んだりしても「適当に遊んでって」みたいな感じだから余計にそう思うのだ。  私のお母さんは暑ければすっぴんだったけれど、春臣くんのママはいつ来ても薄くお化粧しているし、服もおしゃれ。春臣くんの部屋の場所はもう知ってるけど、「適当に入って」なんて言わない。いつも案内してくれる。 「ママに関係ないだろ」 「……」 「……すみませんでした」  ママの顔色を見て春臣くんがしおらしくなる。私からはほっそりした背中しか見えないけど、一体どんな表情を見たんだろう。 「それから?」 「……先生、こんにちは」  春臣くんママが振り返る。笑顔だったのでほっとした。 「ごめんなさいね、今日もよろしくおねがいします」  春臣ママが階段を降りていったので、やっと部屋に入る。いつもながら整理の行き届いた部屋だ。
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