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「今日、もう帰るか?」
そう俊哉に聞かれて、自分のショーケースを拭く手が長らく止まっていたことに、澄香はようやく気が付いた。
「…すみません。今日、全然だめですよね」
勤務が始まってから二時間もしていないというのに、一度ならず注文を間違えたり、おつりを忘れたり、この日の澄香の仕事ぶりは散々だった。
「だめっていうか…事件のこと、引き摺ってるんじゃないかと思って。母さ…副店長に、ショック受けてるみたいって聞いてたから」
てっきりまた苛立たれていると思っていたら、珍しく気を遣われているらしかった。
「前に言ってた、白い服着た人だったんだろ?」
「はぁ…それも、ショックだったんですけど、それよりも…」
「ん?なんだ?」
なんと、話もちゃんと聞いてくれるつもりらしい。晴天の霹靂ではあるが、澄香は俊哉の態度に素直に甘えることにした。
「ここで買い物した時、彼女、男性と一緒だったんですよね。その人は店に入らずに、店のすぐ前の所で彼女を待ってたんですけど。その男性のことがショックで…」
「ああ、同棲相手を殺したっていうのに、すぐに新しい彼氏と仲良くしてるって、ちょっとな…」
「そうじゃなくて、被害者の男性の写真もテレビに出ましたよね」
テレビの報道によると、被害者が殺されたのは三ヶ月以上前とのことだった。
「………」
「似てるなぁって思って」
俊哉は澄香から視線を外すと、ゆっくり顔の向きを横にずらし、店のガラス戸の方を見た。外はまだまだ明るい夕方の景色で、怪しげな男性が突っ立ているということもなかった。
「……聞くんじゃなかった」
「そういうことで、わたしとしては今は働いて気を紛らわしたいというか…」
俊哉は彼の癖である腰に手をあてたポーズで数秒唸ったが、「わかった。ミスしないよう見張っといてやる」と、澄香の希望を彼女にとってあまり嬉しくない条件を付けて受け入れた。
「それにしても、今の話聞いてたら寒気がしてきた。エアコンの設定温度上げて」
俊哉は澄香に向けて顎でエアコンの操作パネルを示したが、澄香は「駄目です」と断った。
「なんで?」
「実はわたしもさっき寒気がしてきたんで、こっそり設定温度上げたんです。そしたら、店長に戻されてしまって」
「ここは加工室じゃないんだからいいだろう」
「『お客さんは暑い中移動してきて、ここのひんやりした空気をあてにしてる
から』だそうです」
俊哉はお決まりのポーズで再び唸った後、今度はガラス窓の向こうの加工室にいる店長を見ながら、「今の話、親父にもしてきて」と澄香をけしかけた。
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