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夕飯の材料やおかずを買い求める客がひっきりなしに訪れる夕方の時間帯を無事に終え、そろそろ店を閉めようかという間際だった。
「すみません」
中身を売りきり空となったバットを片付けていた澄香が、「いらっしゃいませ」の接客の挨拶と共に顔を上げると、目の前にいたのはあの白ずくめの女性だった。
彼女は店の中では当然、日傘をさしていなかった。蛍光灯の下で、色素の薄い茶色い髪と血色の悪い皮膚が青白く発光し、澄香は直ぐ近くで見ているといいうのに、彼女の周りだけ靄がかかっているような錯覚に陥った。
澄香はこれまでいつも離れていた場所で見ていたので、彼女の年齢すら判然としなかったが、ぼんやりとした印象の中で見える範囲では、女性は三十歳手前といった感じの顔立ちだった。
「ロースかつ、いちまいください」
色の淡い小ぶりで薄い唇から出る単語としてはあまりに不似合いで、澄香は一瞬、注文をよく聞き取れなかった。
「ろーすか…ロースかつでございますね。一枚、」
「はい。お願いします」
レジを打ち、会計を伝えた澄香はトングを握ってショーケースを開けた。
「こちらのお店、ずっと入ってみたいなぁって思ってたんです」
テンション高めに話す女性に、「あ、そうなんですか」と相槌をうちながら、澄香はバットに残った最後の一枚であるロースかつをトングでつまんだ。
「夜、歩いてると明るいお店の中でとんかつとか空揚げが輝いて見えて、おいしそうだなぁって」
昼間、暗い場所にいるのは店内の自分の方だが、夜、薄闇に紛れているのは商店街の道を行く歩行者の方だ。当たり前のことに気づかされつつ、澄香はカツを透明なパックに入れた。
「ずっと食べてみたいって思ってたんですけど、同居してる人が揚げ物嫌いで、人が食べてるの見るのも匂い嗅ぐのも嫌って人で、なかなか機会が無くて。今日は、最後の一枚が残っててよかった」
そんなに肉嫌いの人がいるのになんで今日に限ってと思った澄香は、注文を受けたカツが一枚だけであることに改めて気が付いた。邪推すべき立場でもない為、余計なことも言えず、澄香は誤魔化しの笑顔を浮かべながらパックをレジ袋に入れると、会計トレーに入った丁度の代金を確認し、商品を女性に手渡した。
「ありがとうございました。またお越しくださいませ」
機嫌良く店を出て行った女性の後姿を、澄香はショーケースの奥で見送った。
すると、店の外で彼女を待っていたらしい男性が彼女の横に並んで歩き出し、二人は澄香の視線が届かない店の壁で隠された向こうへと去って行った。
あれが同居人だろうか?と思ったが、揚げ物の匂いさえも嫌いだというなら、違いそうだ。新しい恋人かもしれない。だとしたら、何故カツを一枚しか
買わなかったのだろう。そう思いつつ、ショーケースの中にある空になったバットが目に入ったところで、流石に自分に呆れてしまった。二枚なんて買いようが無い。そもそも店には一枚しかカツが残っていなかったのだ。
長らく幽霊かもと妄想していた女性は、とんかつが好きで、今晩近所で買ったロースかつを新しく出来た彼氏と分けて食べる、平凡な、どこにでもいそうな女性だった。
現実はこんなものだ。澄香は拍子抜けしたようなほっとしたような気分になったが、あの女性の件に関しては馬鹿にされるだろうから、絶対に俊哉には言うまいと強く心に誓った。
それから、三日後である。昼下がりに澄香がバイト先にやってくると、肉屋のおかみさんが挨拶も碌に返さずに「すみちゃん、事件、知ってる?」と興奮ぎみに聞いてきた。
「…事件、ですか?」
今日は寝坊し、昼過ぎに起きた後はアルバイトに行く準備ばかりをしていたので、澄香はスマホでニュースを見る機会も無かった。
「なんかあったんですか?地震とか?」
「ほら、今テレビでやってるから」
おかみさんに促され、店の奥に置かれたテレビを見てみると、ワイドショーが映っていた。画面右上には「アパートで死体発見 同居女性を逮捕」とあり、そのテロップの下には見覚えのある地名が表示されていた。
「これ、ここの近所ですか?」
「そうなの。歩いて十五分くらい」
アパートの小物干しがぶら下がったベランダの映像から、女性のバストアップ写真に画面が切り替わった。
「あ…」
髪の色は黒く白い服も着ていなかったが、あの女性に間違いなかった。
「この人、前はよく来てたんだけどねぇ。いつの間にか来なくなって、まさか殺人だなんて…」
おかみさんの声が、やたらと遠くに感じられた。
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