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「暑い……」
「暑い……」
朝から何度目か。俺は知らず知らずそうつぶやいて、床の上で寝返りを打った。
「それ口に出すと、余計暑いよう……」
「わあってるよっ、ああ、くっそ……」
彼女にそう言い返したものの、ケンカするほどの気力もない。
それに彼女も、かなり参ってるのは分かってた。
仕事がお盆休みに入っても、駆け落ち同然で一緒になった俺たちは外食もままならない貧乏暮らし。
休みのはじめにはショッピングモールあたりに涼みに行くか、とも考えたが、行ってみると賑やかな場所はつい無駄金を使ってしまうし、そうした場所はどうにも人が多かった。
俺も彼女も人混みは苦手なたちだから、すぐに人あたりと冷房あたりで参ってしまい、2日目からはうちでごろごろするのが一番だ、ということになった。
とはいえ、うちはアパートの西の角で、昼過ぎには灼熱地獄になる。中古の窓付エアコンはほとんど効いている様子もなく、俺たちはぬるい扇風機の風にあたって汗まみれになっていた。
「氷、もうなかったっけ……」
「さっきいれかえたばっかだし、まだできてないよ……アイスノンも……」
エアコンだけでなく冷蔵庫もリサイクルショップで買った十数年前の物で、時々動きが怪しかったが、買い換える金もなかった。
仕方ないので濡れタオルを首に巻き、汗をふきふき板の間に寝転がって過ごしたが、タオルも空気も生温かくまとわりつくような感触だった。
もう、冷やしているのだか温めているのだかわからない。
「……そういやお前、夏風邪っぽいとか言ってなかった? 今はどう?」
休み初日のショッピングモールで、彼女は具合が悪くなり、しばらく動けなかったのだ。なんとか家に帰り着き、熱を測ったら微熱程度だったのだが、その後も夏風邪だか暑気あたりだか、体調は悪いままだった。
「熱はもうない。むしろ低くて……」
「そうなの?こんな暑いのに? じゃあ、今の方が楽?」
「よくわかんない……むしろ、今の方が暑い気もするし……」
「どれ?」
俺は、彼女の額や腕にぺたぺたと触れた。
じっとり汗ばんではいるが、自分の体温で温まったタオルよりよほどひんやり心地良い。
「へえ。いいなお前、冷たくて」
「よしてよもう……」
「いやいや、ほんと気持ちいいわ。うわー、ありがたいこれ……」
彼女はちょっと嫌がる風だったが、俺が喜んで首筋やら脚やらに触り続けると、呆れ顔ながらされるがままになった。
「ちょっと、さわられてもそんな気になんないよ、もお……」
「いやいや、そういうんじゃないから。
なんかさわってるだけで嬉しいわ。わー涼しい……」
しばらくは嫌そうにもしていたが、やがて彼女も、俺の腕を抱えたまま静かに横になった。
「ほんとに、涼しい? 嬉しいの、こんなの?」
「うん、気持ちいいわー。生き返る。」
「……じゃ……いいかな……」
俺は、随分と久しぶりに心地よく満ち足りた気分になって、彼女を抱えたまま、安らかに眠りについた。
「本当に、全然気づかなかったんですか、奥さんが」
刑事にそう訊かれ、俺は何も答えられなかった。
正直言って、何を訊かれているかよくわかっていなかった。
……まあ、ジケンセイはないようだし……ケンシケッカからも……
そんな刑事の言葉は、俺の頭を空回りしていった。
お盆休みの最終日、友達が、連絡のつかない俺を不審に思って訪ねてきたのだそうだ。
大家に無理を言って部屋を開けさせると、彼女は既に息がなく、俺は熱中症で意識不明だったのだと。
体調不良もあって一層熱中症の症状が悪化し、意識をなくして脱水症状が進んだまま死亡。
彼女に外傷などがなかったことと、俺の症状や部屋の状況からして、警察の結論はそういうことになったという。
到底納得できない。
だが、彼女は死んでしまったのだ。俺に抱きかかえられたままで。
「……ですがね……奥さんの死亡推定時刻が……
外出されたのが10日で、その翌日11日の、朝方7時頃と言ってるんですわ、うち鑑識が。」
「……え?」
「いや、時間も経ってたから前後はするようですが……11日昼前は動かないかと。」
そんなわけはない。
俺は、午後の灼熱地獄になった部屋で、彼女と話していたのだから。
話していた筈だ。
ああでも、だとすると。
考えるほどに怪しくなってくる。俺は、本当に彼女と話していたのか。
(……じゃ、いいかな……)
あの時、眠りに落ちる前の彼女の声は、ちょっと笑ってさえいたようだった。
安心して、嬉しそうな声だと俺は思った。
あの時、彼女の冷たい肌を感じながら、俺は、本当に幸福だったのだ。
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