第5章 彼の知らないわたしの実情

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声の調子や言葉の響きの柔らかさで、もういい加減疲れたからエッチは止めようよ。と文句言われたとは受け取らなかったらしく、奴はむしろ相好を崩してくれた。 「そうだな。別にがつがつしなくてもまだ明日もあるし、時間は充分なんだもんな。そろそろあったかいお湯に浸かって、お前の身体を休めてあげた方がいいか。…何時間もずっと服着ないで裸のままじゃ。実は冷えたり寒い思いしてたかもだしな」 「それはまあ、多分それほどでもないけど。どっちかっていうとずっと火照りっ放しというか。全身のぼせてるかも、全く醒める暇もなかったし」 どっちかというとそろそろクールダウンするためにお風呂に入りたい。というのが本音かも。 川田は意外に元気が残ってる様子でぴょん、とベッドから跳ね起きて、わたしを見下ろして浮き浮きと話しかけた。 「じゃあ俺、今から風呂ためてくるよ。…大丈夫、茜はこのまま休んでて。すぐ用意するから…。ちゃんと風呂場まで支えて行って、身体も隅々まで洗ってあげるし。下の毛、剃刀でメンテナンスもしとかないとな。…あ、そのあとなんか軽く食う?お前、早い時間に飯済ませてからずっと何もお腹に入れてないだろ。任せてよ、一人暮らし歴長いから。あり合わせで何か作るくらいは余裕だし。…冷蔵庫ん中、何が残ってたかな…」 セックスではひと通り満足できたところでのこういう細々したことも、それはそれで楽しめるのか。こっちに気を遣ってって風でもなく、本人もそれなりにこの状況を歓迎してるようには見える。それでも手間をかけさせる羽目になったことは事実だから、弾む足取りでベッドルームから出て行く背中に感謝と気後れの混じった声を一応かける。 「なんか、ごめんね。別に適当でいいよ、そんなの」 姿の見えなくなった奴の向かった方から、明るい声だけが飛んでくる。 「遠慮すんなって。全然俺の方は負担でも何でもないもん。…むしろなんか、こういう風に何くれとなくお前の世話焼いたりするのも結構いいな。ちょっと、新婚ぽくて」 「そ、…かな。ありがと」 思ってもみない台詞で締められて、面食らいつつもごもごもとお礼の言葉を呟いた。 ここで新婚を持ち出されるとは。多分深い意図があってのことじゃなく、ぽろっと天然に出てきたフレーズってだけなんだろうけど。 ベッドの上に転がってる枕を抱え込んで目を閉じ、バスルームから響き始めたお湯を溜める音に耳を澄ませた。深夜まで時間を気にせず二人きりで果てしなく、心置きなくいちゃいちゃしたり何から何まで甘やかすように世話を焼いたり。そういうのが一般的な新婚生活のイメージだってことは否定のしようもないけど。 単純な事実として、それがわたし自身唯一知ってる新婚の実情とは何の親近性もない。ってことだけは自信を持って断言できる、かな…。 当然その場所を思い出せるつもりでいたら思いのほか迷いかけ、少し近所をうろうろしてしまった。決して真新しくはないけどそれが風格を感じさせなくもない、落ち着いた雰囲気のマンションの一室にそれはあった。 エレベーターで二階に上がり、ホールにほど近いところに遠慮がちな小さな表札を見つけて部屋番号を念のため確認する。 以前一度来てるはずなんだから、ここで間違いない。と自分に言い聞かせて手を伸ばしてインターフォンのボタンを押す。彼が在室してるのも確かなはず。ついさっき、通話で直に話してそう保証されたんだから。 それにしても。中からの反応を待ちながら、結婚して既に数カ月経つ今まで、結局あれ以来再び星野くんの仕事場に来る機会がずっとなかったってことだよな。と改めて思う。 一度結婚前の打ち合わせで招かれて来訪してはいるけど。その時はキッチンと思しき空間に通されてダイニングテーブルで話し合いをしただけで、整体院に来たというより普通の部屋を訪問した、って印象だった。 だから当然マッサージも未だここで受けずに終わってる。元同期の飲み会で再会したときは、なるべく早く予約を入れて施術してもらおうって本気で考えて、名刺もちゃんともらってたのに。その後予想もしてなかったことが次々といろいろあり過ぎて、結果それどころじゃなくなってしまっていた…。 『はい。…種村さん?』 ぶち、と軽い音がして、こちらが名乗るより先に向こうから尋ねてくる。わたしはインターフォンに顔を近づけ慌てて答えた。 「あ、わたしです。…あの、その。お忙しいところ」 何て言ったらいいんだ。お招き頂いてありがとうございます?それもなんか、だいぶ変だな。 軽くふ、と響いた音のあとにちょっと待ってね、と穏やかな声がしてがちゃと受話器が置かれた。さっきの微かな息みたいな響きはどうやら思わず漏れた笑みだったんじゃないか、と中からドアを開けてくれた星野くんの表情を見て遅ればせながら理解するわたし。 「いらっしゃい。どうぞ、上がって。…お忙しいわけないよ、大丈夫。だってもう受付時間だいぶ過ぎてるから。お客さん誰もいないよ?」 「ああ、…それは。そうだけど、もちろん」 やや面白がるような顔つき。遠慮が先に立ってつい変な口上になってしまったわたしをからかってる、ってわけでもないんだろうけど。思わず笑みがこぼれたって反応なんだろうな。スリッパがきちんと並べられた室内に導かれながらつい言い訳がましく付け加える。 「営業が終わったあとのこんな時間に。わざわざ仕事場に残って待ってもらって申し訳ないなあって思ったから。ごめんね、早く家に帰って休みたいでしょうに。一日中働いてお疲れのところ」 星野くんは気さくに笑って首を振り、スリッパを履いたわたしを部屋の奥へと促した。 「ここだって僕には家みたいなもんだから。それに君はお客さんじゃなくて家族だし。気を遣って疲れるような状況じゃないから、別に全然問題ないよ。それより、種村さんこそ。一刻も早く家に帰りたいだろうに、悪かったね。わざわざ立ち寄ってもらっちゃって…。やっぱりここの施術台での方が、断然やりやすいもんだから」 わたしは慌てて請け合った。 「それは全然大丈夫。わたしのために営業終わったあとに特別に時間割いてもらってるんだし。悪いとかないよ。…あ、本格的。当たり前か、ちゃんと整体院なんだもんね」 本来リビングだったと思しき空間に入ると、不意に普通のマンションの一室とは思えない様子にいきなり変わった印象を受けて思わず辺りを見回した。 ごく平凡な玄関やダイニングキッチンを見たときの感じからして、もっとプライベートな空間をイメージしてたかも。 想像してたよりきちんと中は改装されていて、棚や机、施術台や医療機器が並んだ室内の様子は一般的な他の整体院と変わらない。当たり前って言えばそうなんだけど、ここだけ見たら生活空間を作り変えたマンションの一室とは思えないくらいだ。 今まで通ってたいくつかの整体院は外観も普通の医院みたいな場所だったから。それに較べたら個人の家に招かれたみたいな雰囲気なのかな、と勝手に想像してたけど全然そんなことはなかった。 彼はわたしのバッグを自然に受け取って荷物置きに丁寧に収めながらこともなげに受け応えた。 「そうか、種村さんはまだここ見てなかったんだっけ。以前来たから中は知ってるかと思ってた。結局マッサージとか全然しないで終わってたもんね、結婚前の打ち合わせの時は」 「うん、当時はいろいろそれどころじゃなかったし。…あ、ちゃんと白衣着るの?なんかかっこいいね。似合うよ」 台に乗るように促され、素直に浅く腰かけてから顔を向けて彼の方を見やる。わたしを出迎えたときには一旦脱いであったそれを、ハンガーから外してさっと手早く羽織って近づいてくる星野くんを思わず二度見してしまった。 わたしの台詞に彼は思いのほか動揺を露わにし、目に見えて耳を赤くした。
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