第5章 彼の知らないわたしの実情

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「特別なことは何も…。えっと、普通に友達と会ったり。時間あるからゆっくり休んで、長めにお風呂に入ったりしたかな。それくらいで…。でも、確かにリラックスはできたし。多少は違うかも、それで」 彼は確かな職業的手つきでわたしの凝った箇所を探り当て、しっかりと揉みほぐしながら柔らかな声で受け応えた。 「そうか。だったら週末の休養がまだ効いてるのかな?温泉にでも行ったのかなと思ったよ。でも思えばこの前家でさっと解したときはかなり遅くまで残業して帰ってきた直後だったしね。そういう違いもあるかもしれないけど」 わたしは話の矛先が変わってややほっとして、思わず口が軽くなり即答えた。 「それは。…多分そうだと思う。今日はほとんど残業なしで切り上げて帰ってきたから。休みの日の影響だけじゃなく、それも関係あるんじゃないかな。較べたら結構身体楽だって感じるもん。実際、がっつり残業してきた日よりも」 彼は穏やかな口振りで優しく相槌を打ってくれた。 「そうか。それは、長い時間根詰めて仕事に打ち込んでると、自然と姿勢も凝り固まりやすくなるしね。ほんとはこの状態を解消するには、仕事量もある程度加減できると一番いいとは思うんだけど…。なかなか、通りづらいかもしれないね。肩や腰がばりばりになり過ぎて苦痛を感じるから仕事減らしてくださいとか。上に言いにくいか…。診断書とか提出しても駄目かな。一応、ちゃんとしたもの出そうと思えば出せるけど、僕の方から」 「うーん、そうだなぁ」 わたしはあまりの気持ちよさについうとうとなりかけながらちょっととろんとした口調になって呟いた。 「この年代になって、今じゃある程度は仕事の裁量もなくはないし。新入社員の頃と違って、自己責任な面もなくはないからなぁ…。まあ、自分でも少し気をつけてみるよ。あんまりキャパ以上の仕事量を引き受け過ぎないようにとか。今まではつい、自分でやった方が早い気するとか。とりあえず何でも抱え込みがちだったから」 我ながら適当な、と思うような口振りで曖昧にそう片付けると、背中を向けた方向から彼がふ、と思わず顔を綻ばせた空気が伝わってきた。 「そうだよね。…種村さんはずっときちんと入社以来同じ仕事続けてて。今では責任もあって、上から一方的にさせられる立場とかじゃなくなってるんだよね。僕なんか、ただ言われることをこなせばいいだけの新米の頃に辞めちゃったから。感覚が当時のままなんだと思う、会社に対しての。押しつけられる量は上に抗議すれば減らせるかもとか。…自分で仕事を采配してコントロールしてたら、そういう感覚じゃないよね」 「まあ。受注して納期を決めるのも全部自分でってわけじゃないから。そこは社内でも掛け合って交渉する必要はもちろんあるけどね。あんまり得意先の言いなりになって無理な条件の仕事ほいほい引き受けるなとか」 幸いそこは、うちの上司や営業担当は比較的理解のある方だから助かってる。と思いつつ頷くと、星野くんは何だかしんみりとした声で嘆息した。 「なんか、数年間ですごく差がついちゃった感じだな。僕だって会社に残って頑張って続けてれば、そういう感覚身についたかもしれないけど。…まあ、無理かな。最初から向いてなかったし。あの頃から種村さんは仕事できてすごいな、羨ましいって内心憧れてたくらいだから。同期なのに」 思ってもみないことをいきなり言われて図らずも照れる。顔を見られない体勢でほんと、よかった。他愛もなく耳や首筋を赤くして、ちょっとぶっきらぼうな口調でその台詞を遮った。 「そんなことない。それより、自分できちんと将来のこと考えて、改めて勉強し直してこれだけのもの築き上げて独立できた星野くんの方が誰が見ても断然すごいよ。ほんとに尊敬に値すると思う。どんなに努力したんだろう、大変だったんだろうなぁって…」 実際そうだ。わたしはうつ伏せのまま彼の手に身体を委ねながら熱心に言い募った。 「自分の頭で考えたり難しい判断を迫られたりすることもたくさんあったと思うし。その責任はわたしなんかの比じゃないでししょ。その点こっちはただ、何となく会社に残ってそのまま仕事続けてただけで。何の偉いこともないよ、正直」 今度は再び彼の方が照れる番。変わらず確かな手つきでわたしを解すその手のひらからは何の動揺も感じられないが、それでも星野くんが正面からの賞賛に顔を赤く染めた雰囲気が背中に感じられるのはどうしてなんだろう。 「そんな。ただ、頑張って就職した会社の仕事に上手く適応できなかったから。結果やむなく他の道を見つけなきゃいけなかっただけで。…最初の志を全うしてる種村さんの方がさすがだと思うよ。僕もできたらそうしたかったんだから」 肩や腰をぐいぐい、と力強く解されてうっとりとなりながら柔らかい声で受け応える。そう言って一生懸命フォローしてくれるのは素直にありがたいと思うし。 「うん。…ありがとう。お互い仕事の内容や難しさの種類は違うけど。それぞれ頑張っていこうね」 「そうだね。僕も君のこと、カバーできる分はカバーしていこうと思うよ。これからもずっと…。せっかく縁あって夫婦になったんだから。できることはお互い助け合っていこう」 解されて何だか自然と力の抜けた身体にそんな優しい言葉をかけられると。ほわほわと内側からあったかい気分。わたしはそこはかとなく幸せな気持ちになって、小さく頷いた。 「そうだね。…わたしなんかでも。できることがあるなら、何でも」 あなたのために。 我が身の状況も顧みず、つい数ミリほども浮き上がった気分になりかけていたところ。そろそろ仕上げに入るべく全体を軽く確かめる手つきで探りながら、ふと彼が思い出したように口を開いた。ちょっと改まった調子の声で。 「あの。…そういえばさ。今度夏、八月のことなんだけど」 「うん?」 突然何を切り出すんだろ。漠然と、例えば旅行とかかな?思えば新婚旅行も行ってないし。夏休みとか、まとまった休み取れる?みたいな話かも。…なんて、ふと想像してしまった。 だけど次の瞬間、わたしのふわふわ浮き立った気分はぷしゅんと気が抜けて呆気なく萎んでしまう。 彼は何でもないことみたいにいつも通りの穏やかな口調でわたしに告げた。 「お盆期間に三日間くらい、まとめて休み取ってここ閉める予定なんだ。その間、ちょっと僕留守にするから。…三日も君のご飯を作ったり家事をやる人間がいなくなって。迷惑かけることになって申し訳ないけど」 「それは。…別に」 わたしはあからさまにがっかりした様子を見せないよう、用心深く呟いた。てかつまり。…休みを取るのはもちろんいいけど。もう最初からそこに予定が入ってるってこと、だよね? わたしだって当然夏にはまとまった休み取るけどね。それは星野くんにとっては関心の外ってことか。ていうか、妻の夏休みがいつなのかは全然どうでもいいの?自分の休みと重なるんじゃないかとかは全く初めから考慮しないんだ。 と思ったけど、もちろんそんなことはおくびにも出せない。わたしたちはそれぞれ自由。休みの日に何をしようが、誰と一緒に過ごそうが。最初からそういう約束で、承知の上で入籍してる。 今になって夫婦なのにそんなのおかしいとか。わたしの方だって、そこを堂々と胸張って責め立てられるような立場じゃないって言えばないわけだし…。 わたしは顔を見られない体勢なのをいいことに、なんとか声だけ明るくいつも通りに振る舞ってみせた。 「大人なんだし、ご飯の支度とか家事くらいわたしひとりでも何とかなるよ。そもそも普段が星野くんに頼り過ぎなんだから…。それに、わたしだって同じ頃に休み取れる予定だし。もしかしたら旅行とか行っちゃうかも。友達でも誘って」 彼はわたしの台詞に何の違和感も覚えた風もなく、せっせとリズミカルに凝った部分を解しながら素直に受け応えた。 「ああ、それはいいね。普段なかなか友達とゆっくり過ごす機会もないだろうし。まとまった休み取れるなら、有効に使う方がいいよね。僕なんかさすがにここを閉めるのも一週間とか十日ってわけにはいかないけど。確かあの会社、結構夏休み長かった気が…。今年のカレンダーだと。何連休になるのかな?」 「さあ、…どうだろ。まだちゃんと確認してないけど。多分九連休とか…」 曖昧に濁して目を閉じる。結婚して初めてのせっかくの長期の休みだっていうのに。思い起こしても全然心が浮き立たない。…そうか、星野くんはもう予定があるんだ。 思えば当然そうなるって予想できててもよかったわけだけど。結婚してから休日を二人でゆっくり過ごしたことなんかほとんどないんだし。貴重な短い夏の休暇をわたしのために空けておく義理なんか彼にはない。 でも。こんなんでほんとに結婚したって堂々と胸張って言えるのかな。最初は合理的で気楽だとばっかり思ってたこんなやり方に、いつしか微妙な違和感を感じ始めてる自分に気づいてちょっとうんざりして顔をしかめた。 週末や連休にどこかへ出かける自由があるのは契約上全然問題ないし、それに文句があるわけじゃないけど。…せめて何処へ、誰と出かけるのか。そのことくらいは一応知らせてくれてもいいんじゃないの、なんて。沸々と胸の内側で湧き上がってきた不満をとりあえずはぐいと深い奥まで無理やり押し戻す。 自分の方だって、二人の間で改めてそんな取り決めになったら現実問題困り果てる羽目になるのは明白なのに。ここで後先考えずにいきなりそんなことを主張し始めるのは。…どう考えても、全然。得策じゃない…。
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