黒い雪の子

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黒い雪の子

 灰色に沈んでいた世界が、ふと光を反射した。冷たいだけのこの部屋に訪れるような人なんて、そう何人もいるわけでもないから、敢えて対応することもないけれど。 「アイ。まだ寝てるのか?」 「…………………………」 「朝飯できてるぞ、食べるか?」 「…………………………………」  どうやら朝食の時間らしい。私にはあまり時間の区切りが解らないから、そういった人の声が、一日の巡りを確認させてくれる。  反応しなくとも相手は私のことを心配しない。眠ってすらいないことも知っている。それを全部解った上で、無視されているのを受け入れる彼は、本当に甘く優しいのだろう。  こんこんと温風を吐き出し続けるヒーターの音を聞きながら、頭の奥で疼く声に耳を傾ける。 「んー。やっぱり眠くない」  諦めて布団から這い出す。窓の外で降り続く雪の静けさに頭を揺らして、テーブルの上にあるカフェオレを呑み込んだ。室温で温まってぬるくなっている液体を流し込んでも、私の意識は覚醒も鎮静もしない。  眠れないのがいつものことなのだった。  毎晩癖のようにベッドに潜り込んで瞼を閉じようと、意識が遠のいたり沈んだりしないので、人は何故眠るのかとよくわからない疑問を持っていることも不思議がられる。 「結局、そんなことで死にもしないんだから、どうでもいいんだけどね」  五十年前から、引きこもりだった。  眠ることができなくて、毎日のように擦り切れる心を休めることができず、一人で壊れかけていたところに現れたのが、さっき私に声を掛けてきたリンネ=シンシャンだった。  数十年を生きている、時の止まった私を子供のように扱う彼には最初は憤っていた気もするけれど。しかしそれも彼なりに対等な位置に立とうとする試行錯誤の一環だったと聞いた時は、なるほどと感心した。  彼は私を人に交わらせようとはしなかった。私が拒絶したからだ。  少なくとも悪い意味で名の知れたこの「粉雪の国」で、薄暗い部屋で消耗していく私に寄り添ってくれるのは、あまりに稀有な存在だった。  階段を降りていく。眠れなくとも意識に障害がないのは、そもそも脳の機能が致命的にぶっ壊れているのだろうと考えると、何か矛盾しているような気がして頭が熱くなる。 「お、降りてきたね」 「うん。おはよう」  毎晩過ごしやすい寝間着に着替えていたけれど、事実眠れていないのだから無意味かも知れない。それでもこの服の肌触りが気に入っているので毎日着替えてしまうのだった。 「牛乳とコーヒー、どっちにする?」 「コーヒー牛乳」 「……………………」  黙られた。欲張ったわけでもなく、コーヒーも牛乳も元から好いていないだけの話だった。それを知っていて訊いてくる方も意地が悪いのではと思っていると、カップには紅茶が注がれていた。 「むにゃー」唸るとリンネは「がうー」と返してくる。百九十以上の図体でやられても可愛くない。  呆れたまま椅子に座ると、リンネも向かい側に座る。こんなことを五年以上も繰り返す辺り、二人とも精神的に成長していないのかなと不安になる。 「あぐー」  テーブルに置かれているバゲットを口に詰め込む。ほどよい空腹にはこの歯応えが沁みてくる。中には甘いクリームが挟み込まれている。  それを呑み込むと、リンネが話し始めた。 「アイ、今日は湖畔に行かないか」 「湖畔? 釣りでもするの?」  もっといいものが見れるかも知れないよ、と何となく昂揚したように勿体振っている。よくわからない。 「でも寒いからなー」 「そんなのいつものことだろ……そりゃ、君の出身の桃花郷とは較べるべくもないけれど」 「あの国の人々は揃って不老不死ってのが不思議だよね。何でだろ」  知らないよ、とリンネは呆れている。 「で、何が見れるの?」 「雪ん子。ごく稀に湖畔に現れるんだってさ。特に冬の国ではそういう精霊は発生しやすいからね」  ふーん。あまり興味ないけれど、見てみたら何かあるのかな。 「まあ、リンネが行きたいなら付き合うよ」 「お、じゃあ昼頃に行こうか」  嬉しそうにする。本当は放っとけば部屋に引き籠もる私を積極的に外に出したいという意図が透けて見えるのだけれど、だからといって私にそれを拒絶する理由が無い以上、無碍にする選択肢は無いのだった。  外に出れば急速に身体が凍えて、動きがぎこちなくなる。防寒着を着ていても、空気の冷たさを完全に遮断できるわけもなく。 「地面凍ってる?」 「いや、今日は乾いてるね。ほら」  リンネの差し出した手を握って、誰も居ない路を並んで歩いていく。  二時間も歩いていけば、街外れに広がる湖が見えてきた。  湖のほとりには商店の並び、その奥に広い砂地が広がっている。ふわふわと舞い散る粉雪の中を進んでいくと、砂が踏まれてしゃくしゃくと音を立てる。 「あ、ほら」  リンネが前の方を指差す。その先を視線で追うと、天候に見合わない薄着の少女が立っていた。その服は黒く、一般的な雪の子のスノウホワイトからは外れていた。  銀色の長髪に見とれていると、その子が唐突に地面に倒れ込んだ。転んだのかと心配していると、砂に半分埋まったまま動かない。  慌てて駆け寄って、抱え起こす。ふわふわと柔らかく軽い体躯の少女は、薄着のまま眠りに落ちていた。普通の人間なら確実に凍死する危険な状況だったけれど、この子は人間じゃない。 「どうする? 連れて帰る?」  私の問いにリンネは迷わなかった。少女を背中に載せてそのまま引き返す。私もその行動は予測できていたので、特に文句も無い。むしろそうしなければ彼を軽蔑していただろう。 「可愛いね。雪ん子って言うから、白いのかなって思ってたけど」  銀色の髪に黒いドレス。古い伝承では白と青色のキモノを纏っていると聞いたことがあったけれど。  小さく寝息を立てながらリンネの背中で眠る姿は人間の子供と何ら変わりはしなかった。幸せそうに見えるけれど。眠ることにそんな意味があるのだろうか?  その少女の頬をつまんでみた。ひんやりしていて、柔らかい。  防寒着もなく外にいられることに感心しつつ、歩いてきた路を引き返す。  なんだかんだ、面白い散歩になってしまっていた。  リンネが少女をソファに寝かせて、しばらく眺めていると。 「ん……?」  瞼を開いた彼女の瞳の色は、一瞬だけ驚愕に染まっていた。しかしその色はすぐに消えてしまって、再びとろけるようにぼやけ、起きたばかりなのに欠伸を零す。 「おはよう?」 「だれー?」  私達に対する警戒など全く見せずに暢気な質問をする辺りは、精霊種のメンタリティだった。リンネが自己紹介すると、彼女は「雪童子・アルター」のレーリと名乗った。 「アルター? 純正じゃないの?」 「何となく記憶にあったから言ってみたけど、よくわかんない……あぅ」  眠そうにむにゅむにゅと喋っている。眠いという感覚がわからない私にはどういう状態なのか、想像することもできなかった。 「何か飲むか?」 「んー。冷たければなんでも」  この冷えた環境でそんな要求を出すのは、やはり雪童子だからなのか。  リンネは冷蔵庫からレモネードを出して手渡した。瓶の栓を器用に外して呑み込んでいく様を見ても、普通の人間にしか思えない。 「アイ、ほら」  私の分も瓶を出していた。三人でレーリを挟むように座る。なんだか不思議な気分だった。それは何でなのだろうと考えてもよくわからない。  なんとなく、心臓の奥で疼く熱がくすぐったいのに。  それを表現する言葉が、どうしても見つからなかった。 「アイさん、機嫌悪そうだね」 「機嫌がいい日が少ないからね」  普段から脳が休まらずピリピリしているのでは、機嫌も悪くなろう。どうにかして眠れればいいんだけど。 「不眠症っぽいね? 眠れないのはなんで?」  聞かれても答えようがなかった。私には理解できないし、リンネもそこに対して根本的に理解しているわけでもない。  だから、「さあ、よくわからない」としか言えないのだ。 「アイが外に出たがらないのも、睡眠による回復ができないからなんだよね。昔言ってたことだけど」  そんなことは考えていなかったけれど、それを見抜いて指摘したのはリンネだったはずだ。 「わたしは眠くて仕方ないけど、そういう感覚もわからないんだね」 「病気というか、体質になってるからね。疲れてても眠気ってものが来ないのは気味が悪いって言われてた」  ふうん、とレーリは不思議そうだった。眠くない感覚のわからない彼女に、私のことを慮れなんて言う気は全く無かったので、話を切り上げる。  レーリを右腕で引き寄せて抱きしめてみた。痩せた身体はそれでも柔らかく、低い体温が伝ってくる。  どれだけそうしていたのか。時間の感覚が曖昧になっているのはいつものことだけれど、腕の中で眠っているレーリを撫でているうちに数時間が経過しているのを知覚した時、あり得ないと呟いていた。  レーリの寝顔は穏やかで、幼く弱く、故に幸福そうだった。ささくれ立った心が次第にフラットになっていることに気付くと、まるでレーリが自分の子供にでもなったようだった。 「顔色がよくなったね」  声に顔を上げると、リンネが緩い表情で私たちを見ていた。時間的にはそろそろ夕食時だったけれど、彼も私も食欲がないことは互いに知っていた。 「呆けてたかな。数時間の記憶がぼんやりしてる」 「それは疲れてるんだよ。もう休むか?」  んー。唸って、どうするか迷った。休むも何も、眠れないのでは意味が無い。身体を休める意味で言えば、少なくとも三日は引き籠もらなければ今朝の水準までは戻らない。  とんでもなく燃費の悪い身体が、恨めしい。 「私、眠れるようになるかな」 「わからないよ」  即答だった。そういう正直なところが、好ましくて。  そういうリンネを見てると、裏切れない。絡め取られている気もするけれど、それでも彼が向けてくる感情が本物であることに甘えていたい。 「リンネ、こっち来て」 「ん?」彼の左手を引いて、身体ごと引き寄せる。すぐ隣に移動してきたその上半身に自分の身体を預けた。丁度リンネの肩に頭が乗るような位置で、そのまま瞼を閉じる。  リンネは何も言わず、もたれる私の頭を右手で撫でる。  心地よさに酔ってしまう。このままでもいいと感じた瞬間、心の奥底でこの環境を壊してしまえばどうなるのか、という黒い衝動が頭をもたげてくる。そんなことをするわけもないのに、そう考えてしまう自分が恐ろしい。  殺人衝動によく似た、人間の昏い部分が揺るがす思考が誰にでもあるものだとは知っているのに。 「むにゅう。アイさん、震えてるよ?」 「アイ、なんか辛そうだけど。大丈夫か?」  ここで大丈夫だと誤魔化すこともできる。でも、それはリンネに対して嘘を吐くことになるから、避けたいことだ。 「何だろうね。今、すごく苦しい。体調じゃなくて、脳の限界が来てる」  震えた身体を必死で制御して、どうにか平静を繕うけれど。  抱きついてきたレーリの冷たさと暖かさに、ハリボテの元気さは突き破られる。数十年にわたって溜め込んできた淋しさと苦しさが涙になって溢れ出してきた。  リンネは何も言わず。レーリは何も言えず。ただ零れ続ける涙を受け止めるだけだった。困惑させてしまう自分があまりに情けなくて、こんなことで泣いてしまう弱さに辟易してしまう。 「うっ……ぐぅ」 「アイさん」  レーリの声に視線を向けると、彼女は真剣な表情で私の目を見ていた。ほとんど距離もなく、涙で滲んだ中でも朧な視線は確かに私の中身を捉えている。  うん、と頷いて。 「明日、案内したい場所があるんだけど。いいかな?」 「俺はいいけれど、アイには厳しいと思うよ。それとも、急いだ方が良いのかな」 「解決策、見えたかも知れないから」  恒常的に不安定な精神をなんとかできるなら、それは急いだ方が良いのかも知れない。 「解った。明日なら予定もないし、俺は動けるよ」  自分が私を背負って行こうと、心底真面目に言う。本当に私に対して過保護だなあと言ってみたら、そりゃあアイのことは大切だからとごく自然に返してきた。  何も言えなくなった。相変わらず頭はきりきり痛むけれど、その言葉だけでなんとなく和らいだ気がした。 「明日の朝、もう一度湖に行こう。案内したい場所があるの」 「湖に? あの辺りは観光地でめぼしい施設はないけれど」 「あるよ、一つだけ」  何がある、とは問わない。言わずともその質問は通じてしまっていたから。それに答えるように、レーリは指を立てた。 「シュライン・ザ・スターコア」  翌朝。いつものように眠れぬまま朝を迎える。いつもと違うのは自室のベッドでレーリが一緒にいることだろうか。  この眠たがりの雪童子がここに落ち着いているのが、嬉しく。同時に哀しかった。自分の子供みたいだと考えてしまうその感情が恣意的なものでしかないのが解るから。  一晩中レーリの寝顔を眺めていても何故だか飽きることはなかった。  時計を見て起き上がると、扉がノックされた。 「アイ、起きてるよね」 「うん」  扉を開いて顔を見せたリンネ。その表情は笑っていてもどこか陰がある。あまり見ない表情をしていることに気付いていない様子で、いつもと変わらぬ同じ言葉を紡ぐ。 「朝飯、食べるか?」  私は、珍しく素直に頷いた。 「ねむーい」 「あれだけ寝といてまだ眠いのか……」  レーリはまだまだ眠り足りない、と頭を揺らしながらテーブルに頭を載せている。そのままトーストをもしゃもしゃしている姿は何かのマスコットに似ていた。 「もぐもぐ。アイさんはまだ疲れた顔してるね。体力は戻ってないんだね」 「うん。どうしても回復が遅いから」  どうするかな、とリンネが呟く。何を考えているかは大体判るけれど、無理なことはしなくて良いと思うんだよね。 「湖のほとりにある施設は詳しくないけれど、シュラインって何?」  昨日の言葉を思い出して尋ねると、レーリはうん? と首を傾げた。 「この国が生まれた時からある聖堂だよ。そこにある呪具に―――ぐぅ」 「寝た!」 「眠たがりすぎる……」  二人で呆れてしまう。きゅうきゅうと痛む脳の中で、彼女の可愛らしさがくすぐったい。こういう子が生活に存在しなかったことが、今までの盲点だったのかな、となんとなく思った。  リンネは私を支えてくれるけれど、結局それで精一杯だったのかも知れない。好きでいてくれることは嬉しいけれど。だからといってこれ以上のものを抱える余裕がないことを、私が気付けていなかった。  自分のことだけで、私はリンネには何もしていない。何十年も一緒にいるのに、それは不誠実に思えた。 「アイ、本当に大丈夫? 無理なようなら予定は後回しでも」 「ううん、平気。こういうことは急いだ方が良いでしょ?」  この言い方にリンネが面食らったように目を瞠る。今までなかった、物事を急ぐ姿勢に驚いたようだった。 「そうか、わかった」  結局、湖まではタクシーに乗って向かった。そこそこの代金を取られたけれど、まあそれはどうでもいいことだ。そういえばリンネの仕事はどうしたのだろうと尋ねてみたら、今日は休みにしたと応えてきた。もともと在宅で仕事をしているので、納期さえ守れば問題は無いらしい。  湖畔には相変わらず風が吹き付け、いつもと同じように粉雪が舞っている。太陽の差さないこの国で、鮮やかな景色を見たことは一度も無く、陰鬱に沈んだ世界をしかし、私は気に入っていた。  生まれ故郷の風景は鮮やかすぎて目に痛かったから、トーンの少ないこの国が、落ち着くような気がする。 「たったったー」  弾む足取りでレーリは湖畔の砂をさくさく鳴らしながら進んでいく。ゆっくりと歩いていく私たちを先導していくにしては早足過ぎるけれど、少し進んでから立ち止まって待ってくれる辺りは、雪童子にしては人臭いなと思う。  そんなことを繰り返して、二キロほど進んでいくと、人工物がなくなり、森に入っていく。  気が付けば空中に甘い匂いが漂っている。意識を揺らす不思議な空気に気付いた時、周囲には白いキモノを着た少女達が木の陰に何人も見え隠れしている。 「すごいね、リンネ」 「そうだな。だけど、ここはちょっと俺にはキツいな」  リンネは苦しそうな表情をしている。聖域に不用意に踏み込むのは、あまりに危険だと判っていたけれど、彼の反応が劇的すぎて思わず立ち止まってしまった。 「疲れてるわけじゃないよね。でも、視線が虚ろだよ?」 「なんだか眠いんだ。さっきまではなんてことなかったんだが」 「もう少しだから、我慢して」  レーリに言われて、リンネは頬を張った。私としてもここで彼に脱落されるのは嫌だったので、手を握って引っ張っていく。こういうとき、眠れない体質は便利なのだと、初めて感じていた。  歩いていくうちに路はどんどんと狭くなって、最終的には路の無い路と化していた。獣道すら無く、ただの茂みに分け入っていくのには相当に体力を使ってしまい、レーリが案内を終えたその時点で、二人ともかなり疲弊しているのだった。 「ちょっと休ませて。足が立たない」  そう? とレーリは首を傾げて目の前の建物を見上げた。  森の深いところにある、教会に似た建物。私は宗教には興味が無いから、その建物の種別やどういった種類の教えがあるのかまでは理解していないけれど、それでも。  この建造物の古色蒼然な有り様には、心の奥に来るものがあった。 「久しいね、冬将軍」  聖堂の奥で待ち構えていた一際大きな石像にレーリが話しかけると、その石像は眼球に嵌め込まれたアクアマリンを光らせる。 「やっぱり怒ってる? でも、相談には乗って欲しいな」 「怒ってるの? 此処に来たのはよくないんじゃないの」  レーリに囁くと、彼女はウィンクで返してきた。大丈夫と言いたいらしい。 「どういうことなのかを説明しないといけないんだけど、どうやって説明すればいいかな」  目を擦って考えているレーリを傍目に、私は聖堂内を飛び回る白い雪童子たちを眺めていた。特に私たちに干渉することなく、ただくるくると回転して雪を撒いている。  氷の精霊に近い雪童子が人間並みの知能を持つことは非常に稀だとレーリは言っていたけれど、そのレーリ自身はアルターという特別な存在であることにどういう見解を持っているのか、聞いていなかった。 「…………………………………………」  石像の前で話し続ける声は、すぐ近くの私には聞こえない。聞いたところで違う言語の内容を理解することなどできないだろうし、それはいいんだけど。  リンネは椅子に座ったまま動かない。眠ってはいないようだけれど、意識がはっきりしていないようだった。  スターコア。この国を存続させる核となる存在は、それこそ一般の人間からすればそれこそ神に近い何かだ。夜界に存在するおよそ三百の国それぞれに存在する基幹システムを制御する魂は、巨大すぎて通常の人間には感知できないとは聞いていたけれど。  それと対等に話をできるレーリは、私たちの尺度では測れない存在なんだろうなあと、愕然としてしまう。 「ちょっと哀しいな」 「ん? 何か言った?」 「なんでもない」  応えると、リンネはうとうとと船を漕ぎ始めた。  長椅子が並んでいるけれど、こんな人数が集まるようなことなどないはずなのに何故こんなに用意されているのかは知らない。まあいいかとリンネの隣に座って右腕を彼の左腕に絡めた。  何度も感じた体温に、ざわつく精神が落ち着いていくのを感じた。 「やっぱり好きだなあ……」  声に出さず口の動きだけで呟いて、そのままレーリを待っていた。眠れれば時間を潰せるだろうけれど、それができない私は人生の長さを無意味に感じながら、無味な時間を過ごしている。 「…………………………………………」  レーリの言葉を聞き取りながら、何を話しているかを理解する無謀な時間潰しで過ごしていると、不意にその声が止まった。 「アイさん。こっち来てー」  相も変わらず眠そうに、間延びした声で私を呼び寄せる。立ち上がると、レーリは何か大きな板のようなものを持っていた。きらきらと透明な輝きが見える辺り、ガラスか何かだろうとは予想つくけど。  何に使うんだろう?  手招きに応じてレーリの前に行けば、「これ、手伝って」と言われた。 「これは?」 「鏡なんだけど、正しい使い方してないから組み立ててないって言われて」 「……こういうのはリンネが得意なんだけどなあ」 「寝ちゃってるよね。連れてこない方がよかったかな」 「そうすると、帰れなくなるよ。私、周辺の地理とか知らないし」 「……ここで何年暮らしてるんだっけ」 「五十年。ずっと引き籠もってたけど」  レーリは黙ってしまった。思うところがあるのかないのか判らないけれど、指示された作業を続けていく。 「ていうか、冷たいねこれ」 「半分以上は冬将軍の造り出す『融けない氷』で出来てるからね。この国を構成するスターコアの一部を拾い上げてるんだって」  確かに、それぞれの国で違う色を出すなら、それに対応した物質が必要にはなるけれど。ここ「粉雪の国」では氷という、わかりやすいものであるということか。  夜界にまばらに存在する「火炎に焼かれた国」なんかは、そのまま核融合プラズマが核になっていたりするので、恐ろしいと思う。 「ここのパーツを嵌め込んで、完成かな?」  完成した鏡は、六角形の鏡が半球体になっているものだった。これをどうやって使うのだろう? 「重い。立てるのかな」 「像に立て掛けちゃえば良いと思うけど」  うにー! と二人で動かそうとしたけど、大きな鏡の集合体など私の力で動かせるわけもなく、どうしようかと考えていたら。 「何をしてるんだ?」  寝起きの声でリンネが近くに来ていた。鏡を持ち上げようとしている私を見て、呆れたように頭を掻く。 「アイ、一人で無理なら呼んでくれよ。そのために俺は居るんだから」 「でも、二人で動かせるかな? かなり重いよ?」  体積を考えても百キロは超えている。人間二人でどこまで持ち上げられるのかはわからないけれど、非力な私を勘定するのもおかしな話だし、リンネを信用しないのも不躾な話なのだった。 「うんぎいぃぃぃぃっ!」  リンネが全力で持ち上げると、ゆっくりと鏡が動いていく。それが完全に立ち上がるのには、三十秒もかからなかった。 「よい、しょっと」  息を切らして離れたリンネと入れ替わるように、私が鏡の前に立つ。なんとなく、そうする気がしたから。  鏡の全ての面に自分が映る位置に立つ。そうすると鏡が光り出し、私の足元に太陰太極図が浮かび上がった。 「これは……」 「魔を映す鏡。それは裏返って、真を映す鏡になるんだよ」  その声に振り向こうとして、出来なかった。視界を埋める白い光に当てられて、唐突に吐き気を覚えたからだった。それを呑み込もうにも喉に引っかかりがあって息が詰まる。  苦しい。 「苦しい? 大丈夫だよ」レーリがそこに立っていた。「いま、楽にしてあげるから」  囁いて、レーリは私の頭を引き寄せて、互いの唇を重ね合わせた。  どくり、どくりと脈動する何かが喉の奥から剥がれていき、そのままレーリの体内に取り込まれていった。  それがどういうことなのかを確かめる間もなく、私の意識が急激に薄れ、そのまま暗転していった。 「つまり、アイさんの体内には魂が二つあったんだよ。通常の意識を持つ陽の魂、そして夜に活性化する陰の魂」  私はベッドの上でレーリの声を聞いていた。意識を取り戻した時、倒れてから一週間が経過したと聞いた時は流石に驚いた。そこまで長時間落ちていたのは初めてだったから。 「それを浮かび上がらせて、わたしが強引に剥ぎ取った。もう、眠れないなんてことはないはずだよ」  陰の魂を取り込んでも、レーリ自身はなんともないらしい。アルターだからだろうか? 考えているうちに頭がすっきりしてきて、気分がよくなっていた。 「眠る感覚って、好いものだね」 「うんうん。わかるよ、わたしはいつだって眠いもの。いつまでだって、寝ていたいんだ」 「それはただの駄目な奴だよ」  リンネの言葉にレーリは面白そうに笑う。一週間経ってもここに居る理由は、薄々わかっていた。  もう、彼女は純粋な雪童子ではなくなってしまっている。自身の身体に人間の魂を取り込んでしまって、半分だけ人間として存在しているのだ。  起き上がってレーリの頭を撫でる。 「アイ、この子をどうしたい?」  リンネは問う。答えなんて解りきっているくせに、それを私に言わせたいのだ。意地悪いけど、それでも悪意はないと知っていた。そういう人だから、と割り切っている。 「レーリ、私たちと一緒に暮らさない?」  少女は笑う。 「うん、よろしく」
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