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『あ。替わる?』
電話口に出た添田は、基に替わるか聞いてきたが、いい、と断った。不貞腐れた声音が出たのだろう。添田は面白そうに笑った。
『新田、怒っちゃったって言ってたよ』
「困ってたか?」
『いや、笑ってた』
腹が立つ。添田は愉快そうに電話の向こうで笑った。
『おふくろさんと二番目のお兄さんが明日来るんだってね。まあ、惚れた相手に末っ子の甘え顔見せたくないじゃない。照れてんだろ、分かってあげなよ』
「ってことは、確信犯か!?」
『いや、こっちが新田を戻せないのは本当だけどね。いいおふくろさんだよ。そうだな、逆に厄介なのは兄貴かもしれん』
「え、何で?」
蓮而は親がいないのも同然だったので親の気持ちも分からないが、兄貴となるともっと分からない。未知の生物と言っていい。
『だってめちゃめちゃ溺愛してんだもん。弟ってより子供みたいに思ってるんだよ。あいつは甘やかされて育ってるから、家族の気持ちに胡坐かいてるとこあるんだよ。鹿野さん、怒っていいよ』
「言われなくても怒っている。他に? 兄貴の情報は? 文恵と牧原が言うにはやたら上品そうな家族らしいけど」
『うーん、そうだな。三兄弟の中では次男が一番俺の好みだ』
そんな情報はどうでもいい。
「あんた、それだから宇田川さんに未だに同棲断られてるんじゃないのか。古保研の中ではきっと来年には関係が元に戻っているという予想らしいぞ。守衛さんまで巻き込んでいつ別れるか賭けられているのを知っているか。ちなみに元締めはすぐ傍にいる男だ」
『コラァ、江藤!』
添田が江藤を吊し上げに行ったのを機に、蓮而は電話を切った。本当に、役に立たない連中ばかりだ。さすがにため息が出る。
「旦那様、そんなに構えなくても。仕事モードでいいんですよ。仕事モードになった旦那様に敵う人間なんていないんですから」
牧原はそうアイパッドに書いて掲げてみせたが、仕事相手は勝つか負かすかだが勝負をしに来る相手ではない。
「社会的スキルを仕事モードにすればいいということですよ。新田さんの御母堂をどっかの役人のお偉いさんか、やたら一等地ばかり所有している地権者だと思えばよろしい」
「“新田くんには私の父が集めた古美術品の調査で大変お世話になりまして、使用人で私の母替わりでもあった者が非常に助けられたことがあるんです。それ以来文恵は彼を気に入りまして、どうせ私は不在がちなものですから下宿代わりにしてもらえたらと思いまして……”」
「そうそう」
そつのない話し方で美しい笑みを浮かべる蓮而に見惚れない女は、年配だろうとまずいない。オッケーですよ、と牧原は親指を立ててみせたが、蓮而ははああ、と先程よりも大きいため息しか出なかった。当の本人がここに居たら、こんな過剰な口上をしなくても良かったのに。
「旦那様、いらっしゃいましたよ」
文恵の声で、蓮而は牧原に預けていた背広を手に取った。
三月下旬の陽光は、ありとあらゆる生命に息吹を吹き込むが如くまろやかな温かさをくるんでいる。やたら背の高い男に付き添われてタクシーを降りた鶯色の江戸小紋を着た女性は、その光の中で蓮而らに向かって穏やかに微笑みながら頭を下げた。
「あんなに、増築されたんですね」
基の次兄は玄関先で文恵と牧原にそう言った。次兄の梓は去年の五月にこの家を訪れ、地震で半壊状態のこの家に弟を預けて大丈夫なのかと不安そうにしていたという経緯がある。
「まだ修繕も途中で外側からはみっともない状態ですが、まあ何とか」
客間は損壊を免れたので以前のままである。この家で最も古い場所がこの客間になった。無論、柳橋幽霊画は別の部屋に移している。
「基の部屋は、こちらの方で」
客間と居間を挟んで南に位置する右側が、増築した基と蓮而の部屋のある棟で、左側は台所や内玄関がある使用人棟となっている。右側が殆ど損壊したので、立て直すまで蓮而と基も左側にいた。梓の示したのは左側である。
「いえ、新しい方に移っていただきましたよ」
文恵の言葉に梓はそうですか、とだけ返した。
会計士と聞いているが、確かに基よりもはるかに社交性はあると蓮而は思った。基は感情をあまり大っぴらに表現しないが、この次兄はかなり気を遣うタイプであると見えて、場の雰囲気を和ませるためにお茶を運んできた文恵を捕まえて、あれやこれやと話しかける。蓮而は自分の容姿が初対面の人間、それも男をかなり緊張させることを十分承知している。ビジネスの場ではそれを大いに利用するが、次兄が慣れるまで場を取り持つことはあちらに任せようと判断した。
基の母は、きちんとした挨拶のあとは息子が会話するのに任せ、柔和な表情を崩さぬまま黙って話を聞いている。女性の顔から息子と似ているところを探すのは難しかった。次兄の方は体格も声もよく似ている。
会話が途切れたのを機に、文恵は膝を立てた。梓がまだ引き止めたいような様子を見せるのを蓮而はさすがに妙に思った。自分もそうとっつきにくい雰囲気を出しているわけではないと思うが、なぜ会話を避けようとするのだろう。
「……文恵は私の母替わりでして。新田くんに随分と助けられることがありましたので、彼が怪我をした際には御礼をしたいと言い出して、ここに呼ぶことを希望したんです」
蓮而がかねて用意していた言葉を話し出すと、今までただ黙ってニコニコと話を聞いていただけの母親が、静かに口を開いた。
「鹿野さん、本式念珠を見せて頂けないでしょうか」
脈絡なく飛び出したその言葉に、蓮而は一瞬何を言われているのか分からなかった。
「基が、あなたに渡したと言っておりました」
「何……何ですか?」
「二輪百八玉数珠です。お持ちですよね?」
蓮而はその瞬間、心臓が痙攣を起こしたように感じた。二輪百八玉数珠。なぜ、なぜそれが母親の口から出てくる。
身体中から汗が噴き出てくるのを感じながら、蓮而はじっとりと手に浮かんだ汗を太ももに擦りつけながら何とか声を出した。
「ど、うしてでしょうか?」
母親はにこりと微笑み、少しだけ背中を丸めた。
「いえ、基があなたに渡したというならもうそれは鹿野さんのものです。あれはあの子の父親の形見なものですから、久しぶりに見たくなったんです。見せて頂いてもよろしいでしょうか?」
ここで断る理由はなかった。お待ちください、と蓮而はあくまで表面上は平静を装って立ち上がったが、ぐらぐらと心もとない足で畳を踏みしめるのに全神経を集中しなければならぬほどに視界が揺れていた。
廊下に出ると、心配で聞き耳を立てていた文恵と牧原が、動揺を顔に浮かべながら蓮而を見つめてきた。蓮而は牧原に手を伸ばし、内蔵の鍵を寄越すように無言で伝えた。牧原が身を翻す。
「文恵、この数珠を親御さんから基がいつ貰ったか聞いているか」
内蔵の中の金庫から蓮而は二輪百八玉数珠を取り出した。それは、文恵がこしらえた紫紺の羽二重の袋に納められている。十七年間、愛しい男に辿り着くための唯一の指針だった物。自分の命そのものだったものだ。
本式念珠という他の名称があることすら蓮而は知らなかった。これは数珠だと十八年前に基がそう言って渡さなかったら、一体何なのか分からぬほどに、それは糸も玉も崩れていた。
基がICUから出て一般病棟に移った後、傍らに抱かれるようにしながら基からこの数珠の説明を受けたことがある。これは母親から貰った父親の形見で、これがあったおかげで通り神をあの世へ送ることが出来た。これがなかったら自分は確実に死んでいただろう、と。
そんな大事なものだったのなら返そうか、と訊いたところ、基は微笑んでこれはお前のものだと手の中に包んでくれた。
十七年、どれほどこれを取りだしては見つめ、思い出しては泣いたことだろう。何度これに向かって愛していると告げたことだろう。劣化して切れそうな糸を一本一本細糸で括り、ただ一つの玉も失わないように注意を払ってきた。それを失ってしまったら、一つでも玉を失くしてしまったら、糸が切れてしまったら、運命が狂ってもう会えないような気がした。これを持っていれば必ず辿り着くと言ったあの言葉一つ信じて、生きてきた。
「いえ、何も聞いておりません。旦那様、新田さんから、親御さんには旦那様の事を何て話しているか、確認したことはありますか」
蓮而は黙って首を振った。宇田川や添田は、単純に調査に関わった家が下宿先を申し出たと伝えているはずだ。
そもそも基の口から実家の話をあまり聞いたことがない。蓮而は自分が家庭というものに縁がなかったため、その辺の想像力が貧弱だった。親や家族の存在をあまり気に掛けてこなかった。
自分がどんな対応をするか、蓮而は想像がつかなかった。しかし、見たいというのなら見せるしかない。二輪百八玉数珠を抱きかかえるように両手に乗せ、蓮而は客間に戻った。
それを基の母と兄の前に差し出した時、兄の梓は大きく吸い込むようにして息を呑んだ。片手が、大きく酸素を閉じ込めたままの口に当てられる。信じがたいものを見たような目を隠そうともせず、それを見つめてきた。
母親は、柔和な微笑みを消して瞬きもせずにそれを食い入るように見つめた。玉の一つ、糸の一本も見逃すまいとするかのように、二輪百八玉数珠の姿をその目に写し取るかのように、きつく口を閉じて息すら忘れたかのように動かなかった。
やがて母は、その目をそのまま蓮而に向けた。
「鹿野さん、あなたはこれを、いつ基から渡されましたか」
俺はいったい、何を言うつもりだろう。
蓮而は、己の口からどんな言葉が飛び出すのか、なぜか他人事のように感じていた。
頭が、表情が、思考を止めてしまったかのようにぼんやりとしている。呆けたように基の母を見つめる蓮而に、母は向けた眼差しを一切緩めなかった。それは、決して責めている視線ではなく、むしろ半開きになった蓮而の唇から出てくるものを、祈るように待ち構えている瞳だった。蓮而の口から零れ落ちるそれを、両手で受け止めようと、胸元まで手を差し出しているかのようであった。
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