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『ねえ~、こっち午前一時過ぎなんですけど。そっちおやつの時間ぐらいでしょ? 何そんなぬるいセックスの話聞かされなきゃなんないの』
佐伯はベッドの上にパソコンを置いて話しているのだろう。身体は裸のようだった。いつものことながらこの男は無駄に色気がある。気だるげな様子は性の匂いが充満していた。さすがにオフィスでティータイムのモンブランを食しながら対話する相手ではない。
「狩野はシャワー中か」
『一戦途中でボスから電話が入って、リビングで会話中。おたくの旦那がうらやましいですぅ。俺の男なんて、こっちの都合お構いなしだから。さっさと金髪美人捕まえて浮気してくれないかって思うくらい。一人で相手していると身が持たないわあ』
蓮而がニューヨークにいる佐伯に電話した本日の内容は、『セックスのイくタイミングが合わないゆえに相手に我慢もしくは早出しさせてしまい、欲求不満を与えてしまうことについて』だ。確かに狩野のような外道には関係のない悩みだろう。
『ていうか、何で俺はいつもいつも蓮而の性の悩み相談を聞かされなきゃなんないわけ?』
「だってこんな事相談できるのお前しかいないんだもん」
『だもん言うな。両性の俺より誰かほかのゲイに訊けばいいじゃん。添田さん、両刀なんでしょ』
「添田さんに相談なんかしたら基が嫌がるに決まっているだろ。このくらい相談に乗ってくれてもいいだろ。誰がお前と狩野をニューヨークに行かせてやったと思ってんだよ」
『はーい、蓮而サマです』
七海が真正会と話を交わし、何とか狩野への追及を回避させたが、ヤクザ一人助けるために七海も大した餌は用意できなかった。念のため海外に出した方が良いと七海に言われ、佐伯はともかく狩野の身の振り方は学者サイドには無理、と添田は蓮而に投げてきた。蓮而は、佐伯一人ならともかく狩野を助ける気はないと突っぱねたが、佐伯は狩野と一緒に行く考えを変えず、最終的には基にまで頭を下げられて、蓮而は仕方なく二人をニューヨークに逃がす手配から預け先、無一文になった狩野のために金までつけてやったのである。
「佐伯、お前狩野にDVなんか受けていないだろうな。あいつに何かされたらすぐ消してやるから俺に言えよ」
『蓮而、極道みたいだよ』
「あんな外道の預け先、外道以外にいないからな。イアンは堅気だがやっぱりマフィアの子孫だ。根っこが狩野に似ているからあいつを選んだんだ」
『だからじゃない? 気が合うみたいだよ』
「イアンは誰とでも気が合うように振舞えるんだよ。マフィアだった祖父をロシア政府に殺され、親父の代にアメリカに亡命してきた。だからファミリーを持っているわけじゃないが、やはり血は争えん。ヤクザとマフィアならマフィアの方がずっと残酷で容赦ない。甘く見るなと狩野に言っとけ。狩野は中国語にも明るいし、あっちの富豪の情報を持っていたからイアンも俺の頼みを聞いてくれたが、役に立たない人間はゴミのように捨てるってな」
『そんな人間と何で知り合ったの』
「MBAを取る際に一緒に会社を作ったことがあるだけだ。大学はあっちはハーバードだったけどな。俺はアメリカを去る時にあいつに会社を譲ってきたが、結局はあいつも不動産ディーラーの方に移ったな」
『……蓮而はそんないい男なのに、なんであんな冴えない学生にメロメロなのかねえ』
大きなお世話だと蓮而はオフィスの椅子にふんぞり返った。俺の男が、どんな色気を醸し出して俺を見るか、お前には分かるまい。俺にとって基以外男じゃない。それは、十七の時から一貫してそうだった。アメリカに渡ってからも腐るほど男が求愛してきたが、その辺の犬と同じようにしか見えなかった。
『俺は、肉体労働だから結構きついよ』
佐伯の仕事を見つけてくれたのは宇田川だった。宇田川は学生の頃メトロポリタン美術館に研究生として留学した経緯があり、その頃からの知人に佐伯の職を頼んだのである。佐伯は現在、アートスクールの雑用係として働いている。
佐伯からは特に職種の希望はなかったが、狩野と違う仕事場で働いているだけで今までと関係性が変わったようだった。秘書という形での愛人から、対等な恋人同士にようやく並ぶことが出来たのである。英語にはまだ慣れないしこき使われるし大変、といつも愚痴るが、その顔に貼り付いているのはいつも満足そうな笑顔だ。
「お前もそろそろパン屋でも花屋でも自分で好きな仕事見つけてきたら」
『うーん、アートスクールの学生らも面白いしねえ。お金貯まったら俺も大学入ってみたいんだ。まず高校かな、中退したから。青児は、早く金を稼いでこんなボロアパート早く出たいって言うけど、俺は結構ここが好きだな。今度、新田くんと遊びにおいでよ』
「やなこった」
その時佐伯が顔を上げ、「蓮而だよ」と告げた。狩野が戻ってきたらしい。声を掛けるのも嫌で蓮而が黙っていると、腕だけが見えたかと思うといきなり通話が切れた。
「あの野郎、誰のおかげで無事に飯が食えていると思ってんだ!」
蓮而の叫びに、秘書の村上が何事かと社長室に入ってきた。モンブランにフォークを突き刺してしまった蓮而に慌てる。
「限定三十個のケーキでしたが、お気に召しませんでしたか」
大丈夫、と蓮而はフォークを口に戻した。蓮而には他に友達らしい友達がいない。基に恋をしている気持ちを持て余しているような状態がいまだに続いているため、色々相談したいのである。十七歳の時に抱いた恋心は、ずっと凍結されたままだった。幻のような相手から、ようやく恋心をさらけ出し、愛を存分に語れるこの状態にまだ慣れていない。ああ、皆この状態でどうやって日常生活を送っているのだろう。
「村上君、聞いていいか」
「何ですか、社長。何でもお答えします」
「メールって、一日どのくらいなら送っていいんだろう? 基……恋人が、昨日から出張に行ってしまって……」
村上は返事をしなかった。
約束した期日に基が戻ってこないと言い出したので、蓮而は慌てた。話が違うと基に対して声を荒らげた。一緒に暮らし始めてこんな口調を向けたのは初めてだった。
「だって、明後日には基のお母さんとお兄さんがうちにいらっしゃるんだよ!? それなのに帰ってこれないって、何それ!?」
「廃寺の地権者探しで難航していて、ちょっと佳境に差し掛かっているから現場を離れられないんだ。こういうことにつきものなんだけど、関わっている人の話すことが二転三転しちまうんだよなあ。結局人手が足りなくて江藤さんも呼んだくらいで……」
「そんなのどうでもいい! 帰ってくるって言っただろ。俺一人でどうやってお迎えすればいいんだよ」
「単に蓮而に挨拶しておきたいだけなんだから、構わなくていいって。孫と一緒にスカイツリー見に来るついでって言っただろ」
「ついでなわけないだろ、基にとっては親だけど俺はどう接していいのか分からないよ!」
「平気平気。俺のやることに文句つけないから」
「馬鹿!!」
蓮而は携帯を放り投げた。信じられない。こっちの気持ちなんて何も考えてない。なんて勝手な男。
ハラハラしながら廊下で成り行きを見守っていた文恵と牧原の間で、着信音が鳴った。牧原のアイパッドである。おそらく基から連絡が入ったのだろう。どんな文面が届いたのか知らないが、蓮而は無視して居間を出た。
四月に大手術をしたH県の病院を退院した後、基がこの家に来た時に次兄家族が挨拶しに来たが、対応したのは文恵と牧原だけで、蓮而はまだ一度も基の家族に会ったことがない。それから二度の手術を行い、そのたびに基の家族はやってきたが蓮而は仕事で会ったことがなかった。添田や宇田川が対応していたため必要なかったこともある。そのまま基は自分のアパートを引き払い、住民票まで移して鹿野家での同居が始まったが、その辺のことを実家にどう話したのか蓮而は知らなかった。
実家に関して分かっていることは、一つだけだった。
基は古保研に臨時技術補助職員として正式に採用されてから、大学の方は奨学金とはまた別の特別給付金を受けている。建前上は後の給料と相殺される形らしいが、それだけ古保研側があの特殊能力を欲したということだろう。しかしそれだけでは生活できず、今まで実家の援助を受けてきたらしいが、今回の手術が完全に終わってからは、仕送りの一切を絶ったという話だった。古保研からのわずかな収入は全て生活費として文恵に渡され、そこから小遣いをいくらか貰う形にしてほしいと申し出たらしい。蓮而は金のことなどどうでも良かったが、基は基なりにここで生活するにあたって筋を通したのだろうと、文恵はその給料を金庫にきちんと収めている。
そんなわけで、添田や江藤ら古保研の口の悪い連中は婿養子に入った、逆玉だと言っているが、蓮而は金なんざある方が出せばいいと思っているし、一向に気にしていない。だが親としては殆ど独立することになった息子の生活がやはり気になるらしく、家長である蓮而に一度ご挨拶させてもらえないかと再三言ってきていたのである。
基の術後の経過も落ち着き、雪の心配もなくなった頃にお会いしましょうと約束し、桜が芽吹くかと思われるこの時期に鹿野邸に来てくれることになったのだが、当の息子がいなくては話にならないではないか。一体何を話せばいいというのか。まだ院生がこんな東京都内にぽつんと建つ、血の繋がりのない三人の住む家になぜ住むことになったのか、何も口出ししてこない実家とはいえ、首をかしげているに違いない。添田や宇田川はその辺上手く話しているという話だが、不審に思われても仕方ないのだ。それなのに。
「基もひどいわよねえ。本当に勝手よね、結局は自分の事しか考えていないのよ」
その声に顔を上げると、いつの間にか客間に来ていたことに気が付いた。柳橋幽霊画が着物の袖を口に当てて笑っていた。
「大事にされていないんじゃないの、蓮而」
実らなかった恋心を成仏させるために描かれたこの女は、思いの通じ合った恋人同士が大嫌いである。昔はこの女にべらべらと悩みを打ち明けていたものだったが、今は基との仲を何とかこじらせようと隙を見つけてはこんな事を話しかけてくるのが憎たらしい。この女と文恵が天敵なのも分かる気がする。
「あんたとの将来をちゃんと考えていたら、こんな面倒なこと投げ出すような真似、出来ると思う?」
「うるさいんだよ柳橋。基はちゃんと覚悟を決めてうちに入ってくれたんだ」
「それなら、あんたに甘えてんのよ。男ってのはほんとに、ちょっと慣れると手のひら返すんだから。蓮而、基はあんたの事なんてもう軽く見てるわよ。どんな男も釣った魚に餌なんてやらないの。いまだに基のやることなすことに一喜一憂してんのはあんただけ。虚しくならないの?」
蓮而は胸の内に浮かんだものを否定するように駆け出した。後ろで、柳橋幽霊画が実に面白そうに笑い声をたてる。
ああ、なんて情けない。あれほどの想いで手に入れたというのに、こんな馬鹿げた些細なことで信じようとする心が曇るとは、人というものは何と欲深くもろいのだろう。
恐ろしいほどに心というものは果てがない。本当に皆、この折り合いをどうつけているのだ。
蓮而は途方に暮れたまま、かといって愛しい男に再度連絡する気にもなれず、木肌の新しい縁側に座り込むしかなかった。
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