番外編 願わくは、望月のころ

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 蓮而(れんじ)はその真実を告げる前に、知らず知らずのうちに一粒涙を落とした。 「じゅう……はち、年前です」  (もとい)の兄の口から、堪えに堪えた息が吐きだされた。母は、蓮而の声を聞いた時、ほんの微かに頷いて見せた。眉根が寄せられ、蓮而の言葉を励ますように見つめ続ける。 「……す……みません……」  蓮而は無意識に謝罪の言葉を口にしながら腰を引いた。膝の上に乗せていた両手を畳の上に附こうとした時、基の母は勢いよく立ち上がって蓮而の方に身体を回した。畳に置かれた蓮而の手を即座にとり、自分の胸元まで引く。 「あなたがどういう人なのか尋ねた時に、基が言ったんですよ。二輪百八玉数珠を渡した相手だ。自分にとってどういう人なのか知りたかったら、二輪百八玉数珠を見せてもらえばいい。それで全て分かるはずだ、って」  母は、蓮而の手を自分の膝の上に乗せて穏やかな微笑みを戻した。 「だから、ごめんなさいね。試すような聞き方をしてしまって。でも先に親を試したのは基の方。全く、あの子ときたら」  子供のいたずらを咎めるような母親の顔しかそこにはなかった。訳が分からず茫然と基の母の顔を見つめる蓮而に、母は、幼い子供に言い聞かせるように言った。 「私があれを基に渡したのは一昨年の十二月です」  一年と少しの間に、いくら何でもああはなるまい。母の眼差しはそれを伝えていた。そして、続けてこう言った。 「あれは、私が夫から、基の父親から婚約の折に譲り受けたものでした」  次の瞬間、蓮而は溢れ出るものを止めることが出来なかった。堪らずに顔を落とす。両手を取られているので顔を覆うことが出来ず、蓮而の涙は青畳の上に次々と丸い跡を残し、吸い込まれていった。基の母親は、そんな蓮而の手をあやすように撫で続けた。 「十八年……そんな長い間、本当によくこれほど大事にしてくれました」  嗚咽を堪えながら、蓮而は心の中でいいんでしょうか、と母親に尋ねていた。いいんでしょうか。俺は、あなたの息子を愛しても許されるんでしょうか。  許してください。どうしても、どうしても好きなんです。俺は、あの男でないと駄目なんです。  そんな蓮而を、母の手は温かく包みこんでいた。そのぬくもりは、蓮而の知らない、卵を孵す親鳥のような優しさだった。  蓮而の嗚咽が少しずつ収まった頃、母親はそっと着物の胸元から懐紙を取り出して蓮而に差し出してきた。蓮而は頭を下げながらそれを受け取り、顔を拭った。母は、テーブルの上の二輪百八玉数珠を袋ごとそっと手にすると、それを愛おしそうに眺めながら言った。 「あなた、おいくつでした。十八歳?」 「十七でした」 「これ、切れてしまったら直せばよろしかったのに。こんなに必死で糸を紡がなくても」 「直すなんてとても……貰った当時のままにしておかないと怖くて……」 「こんなボロボロで基に貰ったの?」 「東谷村で大怪我をしたのは、俺を守ってくれたからです。とてつもない悪霊を相手にして生き残ったのは、その数珠と、お父さんが守ってくれたからだと言っていました。俺に渡した時には、もう数珠は基を守った後で、その状態でした」  それを聞き、今度は母の目からとめどなく涙が溢れた。小さな背中を丸めて、静かに震わせる。蓮而は、躊躇しながらもその細い肩に手を置いた。なんて、小さいのだろう。あれほど大きな息子がこの人から産み落とされたとはとても思えない。これが、母親というものか。 「ありがとう」  母は涙を拭い、ゆっくりと慈しみに溢れた笑顔を取り戻した。蓮而の手に、二輪百八玉数珠を握らせて言い聞かせるように言う。 「形あるものは壊れて当たり前。これをね、基と一緒にちゃんとした形に戻せばよろしいわ。二人で百八の玉を揃えて、糸を選んでね。そして、いつの日かどちらかが涅槃に旅立った時に、これが送り出す者を支えてくれるように」  目を見開く蓮而の手を、母はゆっくりと撫でた。 「蓮而さん。いい、お名前ね」  視線を蓮而の手の中の二輪百八玉数珠に落とし、祈るように言う。 「そして、極楽浄土の蓮の花の上で、また巡り合うことが出来ますように」  蓮而の瞳から溢れ出たそれは、今までに散々流した涙の中で、最も熱かった。  ありがとうございます。蓮而の口から、謝罪ではなく、ひたすらその言葉だけが何度も何度も口を突いて出て止まらなかった。  叫び続ける蓮而の心が収まるまで、母は手を握り続けていた。  客人を送り出そうと表玄関に座る使用人二人は顔を伏せていた。無理もない。立ち聞きしていたのがバレバレの顔だった。文恵(ふみえ)は目を真っ赤にして皺に埋まってしまうほどにしょぼしょぼにし、珍しくも牧原(まきはら)まで見られたくない顔を髪で隠していた。 「お邪魔いたしました。息子を、今後ともよろしくお願いいたします」  丁寧に頭を下げる母親に対し、二人は地に擦りつけるかのように頭を下げ続けた。  基の次兄は、一言も口を利かずに難しい顔を貼り付けたままだった。そんな息子を見て、母は面白そうに脇腹を小突いて微笑んだ。息子はそんな母親に対し、敵わないというように頭を掻き、困ったような笑顔を蓮而に向けた。 「いつか、基と一緒にうちの寺にいらしてください。ただし、八月と十二月は避けてくださいよ。客人といえど手伝いに駆り出されるほどの忙しさになりますから」  ぜひ、伺わせてください。蓮而が頭を下げると、次兄はほんの少し安堵したような、やれやれどうするかな、と実家に思いを馳せるような表情になった。  母は、タクシーが山を下るまでずっと後方に手を振り続けた。蓮而はタクシーが見えなくなっても、桜を喜ばせる陽光が降り注ぐ中に、いつまでも立ち続けた。  蓮而が克明に母や兄とのやり取りを聞かせた後の基の反応は「ふーん」だった。電話口じゃなかったら飛びかかっていたかもしれない。 「伝わらないの!? 俺がどれだけ有難かったか! やっぱり無理にでも居させればよかった!」 『まあ、俺の気持ちはどっちにせよ決まっているからね。親や兄貴が何て言おうが、どっちを取るかはハッキリしてるんで』  それを聞いて蓮而はさすがに本気で怒った。添田(そえだ)が家族の気持ちに胡坐をかいていると称した理由が分かる。男の自分に対して、母や兄がどれほどの思いでああ言ってくれたと思っているのか。  が、基はそんな蓮而の怒りに対して冷静に返した。 『分かってるよ。だから、俺がそう言っちゃいけないと思ったからその場にいるのを止めたんだ』  それを聞いて蓮而はほんの少し怒りを収めた。基は基で、自分の家族を信じていたということだろう。  そしてやはり、自分の事をそこまで考えてくれているというのは素直に嬉しかった。 「今度さ、連れてってよ。基の田舎に」 『ええ? 嫌だよ。何だかんだっていつだって手伝わされるから。とにかく忙しい家なんだよ』 「手伝ってもいい。だって添田さんは行ったんだろ、俺も行きたい。電車に乗って、二人で行きたい」  行きたい、行きたいと蓮而が訴えると基は電話口の向こうで面倒そうに「今度な」とだけ言った。本当に、柳橋の言う通り男というものは自分勝手だ。だが、蓮而の顔には微笑みが戻っていた。  携帯電話に顔を摺り寄せる。その気配が電話口を通しても伝わったのか、基は大きくため息をついた。 『あーあ、抱きてえな』  率直なその声に蓮而はさすがに赤面した。 『明後日には戻るから、蓮而、マンションの方来れる?』  蓮而の高層マンションを基は好きではない。マンション暮らしをしたことがないので苦手なのだろう。だが、時には二人きりで過ごしたい夜もある。そんな時は基は決まって蓮而をマンションの方に誘う。そしてその時は、かなり激しく求めてくるのが常だった。蓮而は身体を火照らせながら頷いた。 「うん、行ける。そう、村上くんに頼む」 『マンションの方で俺が待ってるって言っちゃ駄目だよ。逆に邪魔されるからな』  基は笑いながら電話を切った。 *** 「関本さん、まっすぐマンション前に停めてくれ」  蓮而は社長の声で運転手にそう告げた。村上の勘のいいところは気に入っているが、なぜ今夜基とマンションで会うことがバレてしまったのかどう考えても分からない。 「村上君、君は会社に戻っていい。ああそうだ、関本さん、時間も早いし村上君も送ってやってくれないか」 「結構です! 何度も言いますが社長、まだ誘拐事件の件でマスコミがネタ探しでうろついているんです。自制なさって下さい!」 「そうだな、赤信号だしここで降りてもいいか。じゃあ、お疲れ様」  蓮而はタイミングを見計らって村上が手を伸ばす前に優雅に車を降りた。ビジネス用の早歩きで歩道を大股に進んでいたが、いつの間にか逸る気持ちが前に出た。 「社長、走っちゃダメですってば!」  確かにこんな大通りを上場企業の社長が走る姿など撮られたら、また嗅ぎまわられて株価に影響が出るかもしれない。だが蓮而の心は、ほんの十日ほど不在にした恋人の熱を、声を、匂いを確かめたいと訴えるのを止めなかった。肌を合わせるたびにああもうこれを絶対に忘れないと思うのに、たった十日の喪失だけで記憶に自信がなくなるとは、人間とは何てあやふやなのか。  自分の部屋に既に到着している人物を呼び出そうかと一瞬思ったが、それよりも早く蓮而はカードキーでエントランスへ続く自動ドアを開けた。早く。早く。やっと到着したエレベーターの中に飛び込む。  さすがに部屋の前では蓮而は呼び鈴を押した。思ったよりも早く、扉が開く。 「お帰り」 「お帰り!」  出迎えた基は声を被せるように叫んできた蓮而に一瞬目を丸くしたが、すぐに微笑んで両腕を広げた。蓮而が体当たりするようにその中へ飛び込んでも、数回の手術に耐え鍛え上げた身体はびくともしなかった。息を乱した蓮而の口をほんの少し顔を傾けるだけで吸い上げる。もう何度も繰り返したジグソーパズルのように、自分のどの位置に、恋人の鼻が、口があるのか熟知している動きだった。  ああ、この熱だ。この肌だ。沸き上がる幸福に蓮而はほっと一息ついた。が、すぐについ四十分ほど前まで三十人近くの管理職らと会議をしていたことを思いだし、慌てて顔を離した。 「待って、手洗い、うがいしないと」  基は蓮而の手を引っ張るようにしてすぐ隣のサニタリールームに連れ込んだ。 「面倒くさいから風呂に入っちまおう」  脱いで、と手だけで示して基はすぐバスルームに水音を響かせ、あっという間に湯気でいっぱいにした。同時に綿のセーターを中のTシャツごと脱ぐ。蓮而はどうしていいのか分からず立ち尽くした。一緒に風呂に入る、という行為を未だ経験したことがない。 「ほら、早く脱いで。その細いスーツ脱がせにくいんだから」 「ど、どうすんの?」  基は諦めて蓮而の後ろに回り、身体に添って裁断されているオーダーメイドのスーツを脱がした。 「風呂場で立ったままセックスするの」  額まで赤く染めた蓮而を後ろから抱え上げるようにしながら基はバスルームに運んだ。スーツは脱いだがまだワイシャツは着たままだ。慌てて脱ごうとした蓮而をタイルの壁に押し付けると基は熱いシャワーを浴びせた。そのまま、口を大きく開かせて舌を激しく絡ませる。濡れたシャツの上から手を這わせる。いつもとは違った刺激で、蓮而は這い上がってくる快感に慌てて基の首にしがみ付いた。  基の手が、シャツの隙間から、下着の間から、蓮而が感じて堪らない箇所に触れるか触れないかというところで彷徨う。濡れた下着の上からは、強く擦りあげられる。蓮而は泣きそうになりながら必死で基の背中に爪を立てた。駄目だ、無理だ、立ちながらこの快感を受け止められる自信がない。  ずるりとバスルームの床に膝をつきたがる蓮而の腰を基は支え、それを許さなかった。立って、と囁く言葉に蓮而は懇願するように首を振った。基は容赦なく蓮而を立たせると壁に向かわせ、下着を下ろすと同時に割れ目に指を添えてきた。本能的に背筋を伸ばし、いきなりの刺激を和らげようとする蓮而の反応を抑え、指をいきなり深く入れてきた。 「ああっ」  いつの間にか、熱いシャワーは止まり、身体に貼り付いていたワイシャツも床に落ちていた。ローションを既に用意していたのか、それともまた別の物なのか、刺激を誘いやすくするそれが何なのか蓮而には分からなかった。分かるのは基の指の本数だけだった。一本から二本、そして、三本……。 「い、入れて、入れて……」  蓮而は、自分の経験不足が基をかなり我慢させていることを知っていた。早く、入れてもらわないとすぐに達してしまう。足はつま先立ちになり、前の性器を刺激する基の左手を思わず抑えた。 「お願い……もう、だ、め、いっちゃう……」 「いいよ」  蓮而の耳を舌でなぶりながら基が告げる。 「今夜は、そう簡単に放してやらないから」  どこもかしこも快感でしびれながら、蓮而は懇願した。 「入れて、お願」  次の瞬間、身体の中心を貫いてきたものに、蓮而の浮遊していた快感は一気に絶頂に達した。タイルの壁に飛び散る精液が流れ落ちる暇も与えず、脱力した蓮而の身体を抱え上げた基は、蓮而の片足を大きく持ち上げてより深く自らを迎え入れさせ、浴室に蓮而の声が響き渡った。  目を覚ました時、素裸のままベッドに横たわっていた。  背中には男の心音、首筋には男の規則正しい寝息があった。そして自分の身体は、男の温もりに包まれていた。  男の全てに溶かされそうになりながら、蓮而はもっとそれを感じようと身体を男の正面に向けようとした。その時、壁面が上から下までガラス張りの寝室の窓から、青い光が注がれているのに気が付いた。  それは、見事なほどに円を描いていた。  今まで月は、半月しか気に留めていなかった。約束した下弦。半分欠けた月が、相手を待ちわびる約束された日だった。  それが、これほど見事な望月を見ることが出来る日が訪れようとは。月とは、本来欠けるものではなく、円を描くためにあるものだったのだ。  男の焼けた肌の上に落ちた青い光がほのかに揺れる。同じように青く染まりながら、蓮而はその愛おしい胸に頬を寄せた。殆ど無意識に、髪に、肩に男の優しい手が彷徨う。  願わくは桜の咲く下で、満月のころに死にたいと詠んだ歌人がいた。  ならば自分は、この男に抱かれながら、この男の下で死にたい。願わくは、月が半円を合わせた望月のころに。  蓮而は身体に巻き付いてくる基の腕に顔を摺り寄せて、幸福の涙をそっと拭いながらそう願った。                                    (終)
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