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エピローグ
『ちょっと、何とか言いなさいよ!』
『ワン・・・』
『あんた、産まれてきたことを後悔させてあげようか?』
博美はショコラのケージを開け、その手を中に突っ込んだ。当然、ショコラは、その手から逃れようとする。
『わっ、やめろ! やめろっつてんだ! だいたいお前が動物と会話出来るなんて、聞いてないぞ! 詐欺じゃねぇかっ!』
『うるさいっ! 大人しくしな、このクソ犬!』
それを出窓の所から眺めていた院長が、つまらなそうに口を挟んだ。
『おい、犬コロ。大人しく言うことを聞いた方が良い。その女を怒らせると、何をするか判らんぞ。私は尻に突っ込んだ体温計をグリグリされて、そのまま逃亡した可哀想な犬を見たことが有る』
それを聞いたショコラが青くなって言葉を失った。アングリと開けた口が阿呆のようだ。するとそこに、後ろから声を掛ける者が現れた。憲治であった。
「おいおいおい、博美。そんな風にしたら犬が脅えちゃうじゃないか。見てみろ、尻尾を丸めて怖がってるだろ?」
そう言って彼女を押しのけ、自らケージの中に腕を突っ込んだ。
『おい、そこの禿げオヤジ。さっさと俺を助けろ! 助けさせてやるぞ! そうだ、そうだ。よくやった。それでいい、それでいい』
ショコラのその主張は、普通の人間には『クゥ~ン』という可愛い鳴き声にしか聞こえない。憲治の腕に抱かれたショコラは、身体が持ち上がる際に博美に向かって『あっかんべぇー』をしたのだったが、これも普通の人間である憲治には判らないのであった。
「ほぉ~ら、こうすれば怖がらせずに済む。お前もまだまだ修行が足らんな」
憲治はショコラの頭を優しく撫でた。ショコラは撫でさせてやりながら、『お前の娘は乱暴過ぎるぞ。どういう教育をしたんだ?』と文句を垂れたが、それに気付かない憲治は「おぉ~ヨシヨシ」と言いながら、顔をショコラの腹に埋めた。
『わっはっは、馬鹿め。そのオヤジも、娘に負けじとタチの悪い奴なのだ。我々ペットにとって最も危険な存在かもしれん。悪いが犬コロよ。諦めて洗礼を受けるが良い。わーはっは』
院長が警告を発した時には、既に手遅れだった。憲治はショコラの腹でフガフガに余念がない。
「んん~~・・・ こりゃ堪らん・・・」
『やめろ、この変態野郎! 放しやがれ! この親にしてあの娘在りだ!』
いつの間にか机に戻っていた博美は頬杖を突きながら、憲治の、いや人間の誤解に基づくその茶番劇を横目で見つめていた。「あぁ~、普通の人間に戻りたい」そう切に思う博美であったが、たとえ今から普通に戻れたとしても、二度とあの頃の自分にはなれないことも判っていた。誤解でも何でもいい。憲治の様に犬や猫の腹に顔を埋め、その匂いを胸一杯に嗅ぎたかった。その肉球をプニプニしながら、足の裏の匂いだって嗅ぎたかった。何も考えず、無邪気に動物たちに触れられたら、どんなに幸せだろう。そんな博美の感傷を、ショコラの声が断ち切った。
『コイツ、お前よりタチが悪いぞ! 何とかしろ!』
憲治は自分の顔で、まだショコラの腹をグリグリしていた。ショコラの悲鳴が充満する診察室に、院長が後ろ足で顎の下を掻いた際に飛び散った毛が、フワリフワリと舞っていた。
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