第一章:大丸号(土佐犬♂)

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1  誰かが自分を呼ぶ声が聞こえ、博美は現実に引き戻された。最近、こういう風にあの時(・・・)の記憶が取り止めどなく湧き上がって来ては、ボンヤリとしてしまうのは何故だろう? 父の動物病院を引き継ぎ、何かと忙しかった頃には思い出すことも無かったのに、こうして生活が落ち着いてくると、ふとした弾みにあの記憶が蘇るのだ。  『博美ーっ! 博美―っ!』  それは院長の声だ。自分を探しているようだ。博美は診察室の隣に設けられた自室の机に向かい、止まっていた手を再び動かし始めた。父の代には患者のカルテは全て手書きでファイルしていたのだが、さすがにそんな時代ではなくなっている。博美は過去のカルテも含めて、専用ソフトに打ち込み直すという面倒な仕事を、少しずつでも進めているところなのだ。もう既に引退モードに突入した父は、カルテの電子化には全く興味を示さず、縁側でのんべんだらりと寝転がっている。父ののたくった(・・・・・)難解な文字を解読するだけでも一苦労なのに、そんな気の抜けた憲治を見る度、博美は苛立たしい思いに駆られていた。  開けっ放しの部屋のドアから院長が顔を出した。診察室の方は暖房を欠くわけにはいかないので、電気代を節約する為に自室のドアは開け放しているのだ。  『またパソコンを弄っていたのか、博美?』彼は博美の足元にまで来ると、そう言って彼女の顔を見上げた。『ボヤボヤするな。お客さんだぞ』  『お客さんじゃないでしょ。患者さんって言いなさいよ、ったく・・・』  博美の苦言を聞き流すと、院長はピョンと机の上に飛び乗り、気にする様子も見せずに後ろ脚で「ケッケッケッケッケッ」と顎の下を掻いた。  院長は三毛猫だ。遺伝的にオスの三毛猫は珍しく、聞いたところによると高値で売買されているという。なので院長が人目に触れると、不届き者が連れ去ってしまう可能性が有るのだ。そういった意味から院長は完全な室内飼いの箱入り息子で、口の利き方を知らないのが玉に傷である。  『こちらの行為に対する対価として、金を払う者をお客さんと呼んで何が悪い?』  とは言え、病院にやって来る多くの患者たち(・・・・)との接触やテレビ視聴を通し、彼も彼なりに世の中を知ってはいるのだった。それはかなり偏っている・・・ のかもしれないが。  『あんたねぇ・・・』  院長はもう話は終わったと言わんばかりに、ペロペロと顔を洗い始めた。博美はため息をつく。  『最近、溜息ばっかりだわ・・・』  気怠そうに椅子から立ち上がると、博美は受付カウンターへと向かった。  カランカランと玄関に取り付けたカウベルの音と共に姿を現した患者を見て、博美は思わず仰け反った。体中に雪を張り付けた明らかに堅気とは思えない男に連れられたそれは、博美よりも体重が有りそうな、堂々とした体躯の土佐犬だ。その犬の頭や背中にも雪が積もっている。肌の艶などから比較的若い犬だと思えたが、おおよその体重は80キロ超といったところか。顔は黒いが身体は茶褐色。相撲の横綱の回しでも首に掛けていれば、典型的な土佐犬のポートレートの出来上がりだろう。  「おぅ、姉ちゃん。先生は居るかい?」  「あ、あの・・・ 私が獣医ですが・・・」  「あんたじゃねぇ! 石井の憲治さんだよ!」  「ち、父は既に引退をしておりまして・・・ あっ、取りあえず、こちらのシートに記入頂けますか?」  それを聞いたヤクザ者は ──実際のところ、彼がヤクザなのかどうかは判らなかったが、人を外観で判断することが許されるのであれば、ヤクザという言葉以外に彼を言い表す単語は思いつかない── 脇のペン立ての中からボールペンを取り上げると、目を細めて博美の顔を見た。歳に似合わず色黒で、派手目な指輪で指を飾り付けているあたり、胡散臭いことこの上ない。インチキ臭いトレンチコートの肩に積もった雪も気にせず、男は言った。  「ほぅ、あんたが石井先生の娘さんかい?」  そしてジロジロと博美の身体を嘗め回すように品定めしながら、来院者カードに記入した。カウンターのお陰で腰から下が死角になって、余計な所にまで視線を這わせられなくて良かったと、博美は心から思った。  「腕は確かなんだろうな? ウチの大丸号は、そんじょそこらの土佐犬とは訳が違うんだ。去年の闘犬東北大会の準優勝なんだからよ。言ってみれば大関ってぇやつよ」  ボールペンで博美の顔を指し示しながら、ヤクザ者は自慢げだ。  「へぇー、準優勝ですか? 凄いですね」  話を合わせたものの、博美自身は闘犬というものには賛成しかねた。一概に動物愛護の御旗の下に否定することは出来ないものの、闘犬ではどちらかの犬が命を落としたり、後遺症の残る様な大怪我を負うことも珍しくはない。  「当たりめぇよ! 今年はウチの大丸号が優勝するのは間違い無ぇさ! 今度こそ横綱だ! それに・・・」  「・・・で、この大丸君(・・・)が如何なされましたか?」  面倒臭い自慢話になりそうだったので、博美はヤクザ者の話をぶち切った。ヤクザ者は自分の話が中断させられたことにも気付いていないようだが。と言うより、やっぱり愛犬のことが心配なのか。  「それがよぉ、最近なんだか元気が無ぇっつうか、覇気が無ぇっつうか・・・」  博美がカウンター越しに大丸号を見下ろすと、彼は不安そうな顔で博美を見上げた。  「そうですか・・・ じゃぁ、取りあえず診察室の方に連れて来て下さい」  そう言って博美は裏を回って診察室に向かった。  大型犬なので診察台の上には乗せられない。見たことも無い様な太いリードをヤクザ者が掴み ──いや、これをリードとは呼ばない。強いて言うなら縄だ── 博美は大丸号の前に跪いた。そして聴診器を当てて、身体のあちこちを聴診する。その間も大丸号は怯えたような視線で博美の仕草を見守り、そして身を委ねた。  『さてさて、大丸君はどうしたのかなぁ・・・』  博美はヤクザ者に悟られないよう、独り言のように話しかけた。すると大丸号はビクリと震えたかと思うと、皺だらけの顔に埋まった愛くるしいタレ目を見張った。  『えっ? お姉さん、ボクと話が出来るの?』  『元気が無いんだってぇ? どこか具合でもわるいのかなぁ』  『うん・・・ 別にどこも痛くはないんだけどね・・・』  大丸号の声は、普通の人間には『クゥ~ン』とか『キュイ~ン』みたいにしか聞こえない。ヤクザ者はまさか、博美と大丸号の間に会話が成り立っているなどとは思いもよらず、どうでもいいことを喋り始めた。  「コイツはよぉ、毎日、ロース肉を5キロ、鶏肉を3キロも食うんだ。でもよ、最近めっきり食が細くなっちまってよ。まだ若い犬なんだけどな。どこか病気かも知んねぇと思ってさ」  「あ、あの・・・ すいません。今、聴診中なのでチョッと黙っててもらっていいですか?」  「お、おぉ・・・ 済まねぇ・・・」  緊張して脈拍数が高い以外に、これと言って問題となる様な不安要素は聴診からは見つからなかった。勿論、精密な検査をしてみなければ判らないのだが、博美は彼の症状を精神的な(・・・・)ものと当たりを付けた。と言っても、飼い主であるヤクザ者に妙に勘繰られても嫌なので、割とどうでもいい診察を続ける。  大丸号の大きな頭を両手でガシッと掴むと、そのたるんだ皮膚を持ち上げて眼球を覗き込む。  『ふぅ~ん・・・ そう・・・?』  大丸号は大きな目玉をキョロキョロさせて、博美とヤクザ者を交互に見た。  『じゃぁ、病院に一晩泊まって検査した方がいいかしら?』  それを聞いた大丸号が再びビクッとすると、ビビりながら聞いた。  『痛いことするの?』  「痛いことするのか?」何故だかヤクザ者もビビっている。  彼も大丸号も、濡れたショボくれネズミのような情けない風情だ。博美は思わず笑いそうになるのを堪え、威厳を保ったまま答える。  『いいえ、痛いのは血液採取くらいで、後は大したことはありません。血液検査の結果が出るまで時間が掛かるので、それまでの間に他の診察をやってしまった方が効率が良いですよね?』  『注射!?』  「注射!?」  二人とも病院が嫌いらしい。お子チャマかっ!? 博美は吹き出してしまった笑いに無理やり空咳を被せ、なんとか胡麻化した。  「ぶぅわっゴホッゴホッ・・・ ということで、今晩一晩だけゴホッ、大丸君をお預かりわっ・・・ したいと思いますが、宜しいですかっはッホ?」  ヤクザ者は自分が入院するかのような恐怖に震えた。そんなんでヤクザ者が務まるのかと思えるくらいの怯え様だ。  「お、お、おぅ。んじゃぁ、よ、よろしく頼むわぁ」  「はい。お預かりいたします。診察代は後日まとめてお支払い下さい」  博美が丁寧に頭を下げると、ヤクザ者は大丸号の頭をガシガシと掻いた。  「こいつはぁ、寝る時に傍に居てやらねぇと眠れねぇんだ。そこんとこだけ、くれぐれもよろしく頼むよ、先生」  このヤクザ者、根は優しい奴のかもしれない。そんな風に思えて、博美は笑顔を返した。  「かしこまりました。ご安心ください」
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