第一章:大丸号(土佐犬♂)

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3  診察室の奥には、大小様々なケージが並んだ部屋が有る。そこは入院患者である犬や猫がお泊りするための、ペットホテルのような一角だ。家族旅行などで不在にする間、ペットを預けに来る飼い主のためであったり、或いは経過観察が必要な仔にも用いられる。普段はワンワンニャンニャンと賑やかな部屋なので、憲治はその部屋のことを合宿所(・・・)と呼んでいるが、今日はお泊りの仔は居らず、大丸号が一人でその部屋を独占しているはずだ。  『大丸く~ん・・・』  博美が合宿所に入ってゆくと、あまりの光景に目を疑った・・・ いや、耳を疑った。あの大丸号がオイオイと泣き崩れているのだ。大丸号の前には院長がチョコンと座って、何食わぬ顔で毛繕いをしていた。  『ちょっと、院長! あんた、また患者さんをイジメてたんでしょ!?』  『おぉ、博美か。コイツ、面白いぞ。こんなでかい図体なのに、メッチャ気が弱いんだ。顔だっていっちょ前に厳ついのにな。わっはっは』  『体が大きくたって、まだ子供なの! ってか、あんた何言ったのよ!? 泣いちゃったじゃない!』  『何も。本当のことを言っただけさ』  院長はプイとそっぽを向いた。  『ったく・・・ ほら、大丸君。どうしたの? このバカ猫が何か言った?』  『バカ猫とは失礼な!』  『このオジサンが、闘犬なんかしてたら、そのうち死んじゃうんだぞって・・・』  大丸号はメソメソしながら言うと、院長が噛み付いた。  『オジサンとはなんだっ、このクソガキッ! 親切心で教えてやったのに! 俺の猫パンチを喰らわせてやろうか!?』  『あんたは黙ってなさいっ! 話がややこしくなるでしょっ!』院長に咬み付いた博美は、振り返ると直ぐに優し気な表情を作って大丸号に笑いかけた。『こんな奴の言うこと、気にしなくていいんだからね。知った風なこと言ってるだけだから、大丈夫だよ』  『うん・・・ うん・・・』泣きべそかきながら頷く大丸号に、院長が追い打ちをかける。  『頸動脈とか噛み切られたら血がドバーッと吹き出して、助からないんだぞ~。ウッシッシ』  『あんた、生まれてきたことを後悔させてやろうか?』  殺意の漲る表情で院長を睨みつける。そう言った瞬間、それが何処かで聞いたことが有る台詞の様な気がしたが、それを何処で聞いたのか直ぐには判らなかった。だが今は、そんなことを考えている場合ではないということを思い出し、博美は院長に向かってシッシと手を振った。  『院長はあっち行ってて。私はこの仔と話が有るから』  『はいはい。判りましたよ』  彼は尻尾を振りながら、つまらなそうに出て行った。  『で? 元気が無いのはどうしてなのかな、大丸君?』  『うん・・・ お父さんがやれって言うから仕方がないんだけど、僕・・・ 他の誰かと喧嘩するのが嫌なんだ。やんなきゃいけないってことは判ってるんだけどね・・・』  大丸号の言う「喧嘩」とは、きっと闘犬のことなのだろう。  『お父さんってのは丸男さんのことね?』  『うん』大丸号は頷いた。  『そっか・・・ そうだよね。誰だって喧嘩なんてしたくないものね』  『だってね、喧嘩の時、相手は物凄く怒ってて怖いんだよ。噛み付かれて首をぶんぶん振り回されると、腕とかがもげそうなくらい痛いし、オシッコだって漏れそうになるんだ』  そこまで言うと、先ほど院長が言っていたことが決して誇張などではなく、充分に有り得ることなのだと思えるのであった。院長は彼なりに、大丸号に闘犬の危険性について教え諭していたのかもしれない。博美は自分がケージの中に入り、大丸号の大きな身体に腕を回して身体を預けた。彼の首筋辺りに顔を寄せ、その背中の弛んだ皮膚に頬を付けると、目の前に無数の傷跡が残っていることに気付いた。それらはきっと、闘犬の際に受けたものだろう。  『本当はしたくないのに、お父さんの為に喧嘩してるんだ?』  『うん。だって僕が頑張ると、お父さんがスッゴク喜んでくれるんだ。顔とか身体を、いっぱいゴシゴシしてくれるんだよ。でも負けた時は・・・』  言い淀む大丸号の瞳には、辛い思い出の数々が浮かんでは消えているように見えた。その悲しみが洪水の様に博美の心の中に雪崩れ込んで来る。博美は彼の身体を優しく撫でた。  『そっか・・・ そっか・・・』  大丸号は自分の前足の上に顎を乗せた。  『でも、もう直ぐまた喧嘩しなきゃいけないみたいなんだ。それで、本当は仲良くしたい相手にまで、怖い顔で睨みつけたり・・・』  また大会が有るのかもしれない。その追い込みで、格闘に向けた特訓でもやっているのだろうか。この気の優しい仔に、それは酷な仕打ちだ。  『噛み付かれるのは凄く嫌だけど、僕が噛み付いた時に、相手が痛そうな声を上げるのがもっと嫌なんだ』  『そうだね・・・ そんなの、誰だって嫌なのにね・・・』  『ねぇ、お姉ちゃん。どうして僕は喧嘩しなきゃいけないの? どうして僕が喧嘩すると、お父さんは喜ぶの?』  その問いに対する答えを、博美は持ち合わせていなかった。何と答えて良いのか判らない。その代わり、博美は大丸号の頭をゴシゴシと撫でてやった。  『暫く傍に付いててあげるから、今日はもう寝なさい』  『うん。おやすみなさい』  ペットを愛していても、その気持ちが判らない飼い主。その飼い主の期待に応えようとするペット。お互いが一方通行の愛情に苦しんでいる。博美は赤ん坊をあやす様に、大丸号の肩の辺りをペタペタと優しく叩いてあげた。  『はい。おやすみ』  大丸号は前足に乗せた顔を少し横に傾け、静かに目を閉じた。  『あんたなりに心配してくれてたんだね?』  事務机の上で丸くなっていた院長に話しかけながら、博美が自室に入ってきた。大丸号は合宿所で鼾をかきながら夢の中だ。院長は欠伸をした後、両前足を前方に投げ出して上体を沈みこませ、腰を高く上げるポーズで伸びをした。  『何のことを言っているのか判らんな。お前の言うことは、いつも意味不明だ』  『別にいいけどさ』  机の前の回転椅子に腰かけると、博美も大きく伸びをした。ついでに出た欠伸のせいで、彼女の目には涙がちょちょ切れた。大丸号を寝かしつけるために添い寝をしていたら、どうやら自分もウトウトしてしまったようだ。博美は机の上に放ったらかしになっていた猫のイラスト入りのコーヒーカップを手に取ると、埃が入らないように被せてあった同じ柄の蓋を取り外し、冷めてしまったコーヒーを一口だけ口に含んだ。  『そもそも、なんで闘犬なんかやってるのかな? あんな野蛮な風習、今すぐにでも止めるべきよ。だって動物が可哀想じゃない』博美は鼻息を荒くした。  しかし院長は冷めた視線を博美に送った。  『本当にそうなのか?』  『えっ?』  『本当にそう思うのか、と聞いている』  『だって、そうじゃない?』  院長は『ふぅ』とため息のようなものを漏らした。猫がため息を漏らすなど聞いたことが無いが、おそらくそういう気分なのだろう。  『周りを見回してみれば・・・』と、院長は話し始めた。  『闘牛や闘鶏だって有るじゃないか。鹿児島や高知には女郎蜘蛛を用いた、いわゆる昆虫相撲が行われていると聞いたことが有るぞ。遠く中国ではコオロギを使ったものも有るという。無論、それらには長きにわたる伝統や歴史が有るのだろう。元々の発祥は作物の出来を占う占術であったり、信仰に由来する神事であったり、或いは家畜を飼い慣らすための手段であったりしたのだ。それらは皆、その地域に根差した文化であり風土であり、美徳であり生活なのだ。最近の風潮に合わせた、一方向からの価値観だけで否定して良いものではないはず。  古代ローマにおいて人間同士で闘犬まがいのことが行われてきたのが、その最たるものと言えるが、かの地ではいまだにマタドールが牛を殺し、それを熱狂的な大観衆が見守っていると言うではないか。あれが許されて、闘犬が許されないのは何故だ? 現代においても、ボクシングなどの格闘技がスポーツとして人気を博しているのは何故だ?』  『そ、それは・・・』  『それはきっと洋の東西を問わず、また歴史の古今を問わず、人間の持つある種の本能とか本性とか、或いは欲望とか欲求とか、そういったものと密接に結びついたものに違いないからなのだ。更に言えば競馬はどうだ? 馬たちは走りたがっていると競馬ファンや関係者は言うが、全ての馬がそうなのか? そんなもの、人間の勝手な妄想、詭弁、自己弁護でしかないのかもしれんではないか。博美、お前のような人間が馬たちの気持ちを代弁したところで、きっと彼らは聞く耳など持たんだろう。  確かに闘犬と競馬を同列に扱うべきではないという意見には賛成だが、動物を競い合わせるという軸で見たら、どちらも同一線上にあると考えるべきだ。小さな男の子たちがカブトムシやクワガタムシでやっているのも同じといえば同じ。そこに「ここまでは良くて、これより先はダメ」という線を引くのも、人間様の勝手な都合だとは思わないか?』  『あんた・・・ 本当に猫なの?』  院長は怒りとも呆れともつかない顔で博美を見た。  『そんな下らん質問には答えるつもりは無い』  『ごめんごめん、茶化すつもりは無かったんだ。許して』  そう言って博美は両手を顔の前で合わせた。  『じゃぁさ、大丸君が闘犬に駆り出されるのは、どう思ってるの? あんな優しい仔にそんなことさせるの、私はやっぱり賛同できないなぁ』  『私は別に、闘犬を支持しているわけではないぞ。自分が良かれと思ってやっていることでも、他人には迷惑な場合も有るということを言いたいだけだ。そういった意味では、あのブチャイクな犬が闘犬に出場することは、決して賛成できるものではないな』  『回りくどい言い方だけど、基本線は私と一緒ってことで良いかしら?』  院長はプィとそっぽを向くような仕草で答える。  『まぁな。もし闘猫みたいなのが有ったとして、自分がそれに駆り出されると思うとゾッとするしな』  『闘猫かぁ・・・』  『余計なことを考えると、カルテの上で毛玉吐くぞ、馬鹿者っ!』  『あははは。やっぱり院長は可愛いぞぉ』  そう言いながら博美は院長を抱き上げ、その腹に顔を埋めた。そしてフガフガと匂いを嗅ぐ。  『やめろ、馬鹿者! やめろと言っているのが判らんのかっ!?』  『フガフガフガ・・・』  『わっはっは、くすぐったいだろ! や、やめ・・・ ナハハ』  『グリグリグリ・・・』  『にゃぁ~』
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