第八章:のん(日本猫♀)

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4  博美は赤信号で停車していた。ステアリングに添えられた両手は、忙しそうに動き回っている。前を走る車も必要以上に安全運転で、そのノロノロした動きにイライラしっ放しである。  「この信号って、こんなに長かったっけ?」  そんなことをしても早く着くわけではないのは判っているが、どうしても首を伸ばして先の方を見てしまう。運転には自信が有り、沈着冷静を肝に銘じているつもりであったが、こんな状況で落ち着いてなど居られるわけが無い。  「もう・・・ 早くしてくんないかなぁ・・・ これじゃぁいつまで経っても着かないよ・・・」  そこまで考えて、博美ははたと気が付いた。  「着かない・・・ って・・・ 何処に?」  ゴクリと唾を飲み込む音が、やけに大きく響いた。  「私は何処に向かって・・・ 走ってる・・・ のか・・・ な・・・???」  先ほどまで蒼白だった顔は、今は真っ赤に茹で上がっていた。青くなったり赤くなったり、全くもって忙しない。博美は見えて来たコンビニの駐車場に車を滑り込ませ、急いでスマホを手に取った。幸い、電話をかけた相手は直ぐに対応した。  「お父さんっ! お願い! カルテ見てっ!」  「おぉ、博美か。お婆ちゃんは大丈夫だったかい?」  慌てふたむく博美を落ち着かせようと、憲治はあえてのんびりした口調で答えた。やっぱり博美は、後先考えずに飛び出して行ったようだ。憲治の、ある意味挑発的な(・・・・)口調を気にしている余裕すら無いらしい。  「いいから早くカルテを確認して! 下村さんだから、サ行の欄にキチッと整理してあるからっ! で、下村さんの住所を教えて!」  キチッと整理してある? あの机の上は、とても整理してあると言える様な状況ではなかったが、ひょっとして院長がぶちまけたのか? と憲治は思ったが、今は何を言っても通じないだろう。それよりも博美を落ち着かせる方が重要だ。焦り過ぎて、彼女が事故でも起こしたら本末転倒ではないか。  「大丈夫、もう救急車は呼んであるから」  憲治が一部だけ抜き取ってあったそのカルテをピラピラさせながら伝えると、博美が電話の向こうで息を飲んだ。  「へっ???」  「下村文江さんだろ? のんちゃんのオーナーさんだよな? こんなことも有ろうかと、既にカルテに書いてある住所に、救急車を向かわせてあるから。だからお前は落ち着いて現場に向かいなさい。交通事故でも起こしたら大変だからな」  「あ、ありがとう・・・ お父さん・・・」  憲治のあまりにも的を得た対応に、博美は言葉を失った。と同時に、何も考えずに飛び出して来た自分の無思慮さが恥ずかしくなった。  「相手の電話番号が判ってるんだから、それをスマホの地図アプリに入力すればナビしてくれるんだけどな。慌て過ぎて、そんなことにまで気が回らなかったか? まっ、いいか。言うぞ。下井山3丁目2-17だ」  今度は恥ずかしさで顔が紅潮した。昔からそうだった。夢中になると、何も考えず無意味な行動だけが先走りして、結局何もできない。小学校の頃、授業中の提出物が間に合わず、それでいてクラスメイト達は要領良くどんどん提出してしまって、自分だけが取り残されそうで涙が止まらないことが良くあった。あれから何も進歩していないじゃないか。何処が成長したと言えるのだろう。博美は自分の不甲斐無さを噛み締め、スマホをギュッと握りしめた。こんなことなら、院長に付いてきて貰えば良かった。  「う、うん。下井山3・2・17ね。判った」  子供の頃の様に涙が零れそうになるのを堪え、博美は電話を切った。そして地図アプリを開き、憲治から教わった住所を入力しようとした時だ。コンビニ前を通り過ぎる車両の騒音に紛れて、微かにサイレンが聞こえて来た。救急車だ。  博美はスマホの操作を中断し、ギアをRに入れた。そして左に車のお尻を振って駐車エリアから外れ、今度はDにシフトして駐車場出口から車の頭を出す。どっちだ・・・? いた! 右の方からこちらに向かって走って来る。その進行方向に病院は無いので、これから急病人の元へと向かう途中だろう。博美は車間を縫ってスルリと車道に車を出し、道路左側に寄せて救急車の通過を待った。  両脇に寄って道を開けた車列の中央を、センターラインを跨ぎながら進んでくる救急車。それをドアミラーで確認しながら博美は思った。あの救急車に付いて行けば、そのまま文江の家に連れて行って貰えるに違いない。我ながらナイスなアイデアではないか。だが、ひょっとしたら別の誰かの元へと向かう可能性も捨てきれない。かと言って再びスマホを取り出して、「下井山3・2・17」を入力している間に、あの救急車は手の届かない所へ行ってしまうだろう。どっちを選択すべきか、考えている暇も無さそうだ。憲治の冷静な対応が博美にも伝染して、今や彼女も思慮深く行動、判断が出来るようになっていた。  「あっ、そっか!」  その瞬間、彼女の右横を救急車が通過した。高校生の頃に苦手な物理で習ったドップラー効果によってサイレンは音程を下げ、そのタイミングを見計らって車を出す。すると、モタモタする数台を追い抜き、救急車の後ろ4台目辺りに車をつけることが出来た。取りあえず置いて行かれないように、この位置をキープしよう。そして博美はポケットの中からスマホを取り出した。「本当は運転中に操作しちゃイケナイんだけどねぇ・・・」そう言いながらスマホを口元に持ってゆく。  「Hey! Android。下井山3の2の17まで案内して」  そうなのだ。今時のスマホには人工知能が搭載されている。わざわざ行き先を手入力する必要など無いではないか。憲治から電話経由で授かった冷静さは、かつての博美では考えられなかった選択肢を彼女に与えた。これなら救急車に引き離されたとしても焦らずに済むはずだ。  ”シモイヤマ サン ノ ニ ノ ジュウヒチ ニ アンナイ ヲ カイシシマス”
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