第八章:のん(日本猫♀)

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5  博美が駆けつけると、文江がキャスター付きの救護ベッドに乗せられて、先に到着していた救急隊員に運ばれているところだった。結局、博美の車は救急車には引き離されてしまい、慣れないスマホのナビに頼ってここまで辿り着いたのだ。それもそのはず。途中で渋滞に巻き込まれ、救急車だけは車間をぬってスイスイと進むのに、博美の車は停車せざるを得なかったからだ。さすがに一般車両が救急車の後ろにピタリと着けて、その超法規的な走行を享受するわけにもいくまい。  急いで車を降りて文江の元に駆け付けると、彼女はうっすらと目を開けた。良かった。最悪の事態は避けられたようだ。  「お婆ちゃん! 文江お婆ちゃん!」  呼びかける声に、文江の左腕が微かに反応した。その手を取ろうとすると、救急隊員によって阻止されてしまった。患者に迂闊に触らないで欲しいというのは、医療関係者ならば納得せざるを得ないだろう。もしかしたら感染症などの可能性だって捨てきれないのだから。  その代わり、文江の左手は弱弱しいながらもハッキリと、自分の家を指差した。彼女の言わんとしていることは明白である。  「判ったよ! のんちゃんの面倒は私が見るから!」  そう言うと、文江の目が優しく笑った。その様子を見た救急隊員が話しかける。  「ご家族の方ですか?」  「い、いえ・・・ 友人です」  「それでは、どなたか身内の方に連絡を取って頂けませんか?」  救急隊員のテキパキとした対応に押されながらも、博美は精一杯に理性的な対応を心掛けた。いざという時にアタフタしてしまう自分を、嫌と言うほど痛感させられたばかりなのだから。  「私、それほど詳しいわけではないんです。ただ、文江お婆ちゃんに身寄りは居ないとは伺っています」  「そうですか・・・ でしたら、追って関係者からお話を伺うことになると思います。名刺か何かお持ちでしたら・・・」  「申し訳ありません。今は名刺は持ち合わせておりませんが・・・ 角野谷町で『ひまわり高原どうぶつクリニック』を開業しております石井と申します」  「あぁ、あそこの獣医さんでしたか? 承知しました。それでは関係者にそう伝えておきます」  救急隊員はニコリと笑って、救急車に戻って行った。「関係者って誰のことだろう?」そんな思考を断ち切るような、けたたましいサイレンの咆哮を残し、救急車は文江の家を後にした。ご近所の野次馬たちが走り去るそれを眺めながら、何やら小声で会話しているのが聞こえたが、彼ら彼女らが何を話しているのかまでは聞き取れなかった。時折、断片的に「お気の毒に」などという言葉が聞き取れる程度だった。  救急車の後姿が見えなくなると、博美は野次馬たちと同じように踵を返した。違うのは、彼らは自分の家に戻ってゆくのに対し、博美は文江の家へと向かうことだろうか。当然ながら、玄関は施錠されていない。博美は小さな声で「ごめん下さ~い・・・ お邪魔しま~す・・・」と呟きながら、恐る恐る家の中へと足を進める。靴脱ぎを昇り、奥へと続く廊下を進む。そして居間と思しき障子を躊躇いがちに開けた瞬間、博美はハッと息を飲んだ。  そこには何も無かった。6畳ほどの畳の間の隅に、キチンと三つ折りにされた布団が積み重なっている。その横の床の間には今時珍しい、薄緑色の電話機が置いてあった。時々、博美と雑談を交わした電話は、きっとそれだろう。そして、それ以外の物は・・・ 見事に何も見当たらない。テレビも無い。時計も無い。卓袱台も、座布団も。絵やカレンダーなど壁に掛ける物も一切見当たらず、花はおろか花瓶すらも。一見すると奇麗に清掃されているように見えるが、部屋の隅には薄っすらと埃が溜まり、文江の生活圏(・・・)が部屋の中央に限られていたことが伺える。  あの物腰が柔らかくて優しそうな老女が、何も無いこの部屋で一人、淡々と歳を重ねていたと言うのか。電話を通じて博美と話をしていた、あの上品そうな文江はその時、この砂漠のような空間に一人、ポツンと座り込んでいたのだろうか。電話を通して聴いた文江の声が博美の中で木霊した。あの楽しそうな笑い声は、きっとこの部屋の圧倒的な静寂の中に吸い込まれていたに違いない。博美はそれを汲み取ることが出来なかっただけなのだ。ここは時間の流れすら感じられない、無の空間だ。文江がこれまで背負ってきた孤独が、息をもつかせぬ程の高い密度で充満している別次元の片隅である。その空気はただひたすらに重く、博美を圧し潰そうとする無慈悲で冷徹な摂理のように感じられたが、一方でそれは途轍もなく透明で、キンと冷えた真冬の朝の様にも思えるのであった。博美の口から吐き出される息も、幾分白く思えた。  その時、三つ折りにされた布団の上から、『にゃぁ』とのんが鳴いた。博美はそっと歩み寄り、そして彼女を抱き上げた。のんの顔に頬を添えながら言う。  『そうね。のん婆ちゃんが居たんだもんね。文江お婆ちゃん、独りぼっちじゃなかったよね』  文江は近くの青秋大学付属病院に担ぎ込まれていた。憲治の機転により、119通報が速かったため一命を取り留めた形であったが、直ぐには退院は出来ないようだ。文江が回復するまでの間、のんを預かるという約束だが、彼女の身の回りの世話をする役割も、当然ながら博美が背負い込むことになった。猫だけ預かって、後は知らないというわけにもゆくまい。  見舞いがてら必要な物をメモして帰って来て、翌日、文江の家に行き着替えやら何やらを持って、また病院に戻るという三角形のピストン運動を繰り返した。文江の家に行くときは、事前に何が何処に有るのかをのんに聞いてから行くように心がけた。何故ならば、文江の記憶が当てにならないからだった。  『ねぇ、のん婆ちゃん。タオルとかって、何処に仕舞ってあるのかな? 昨日チョッと見てみたんだけど、見当たらなくって・・・』  『タオル? 新しいのだったら、トイレ横の納戸の奥に箱に入ってるのが積んであるわよ。って言うか、私を連れて行ってくれれば教えてあげられるのに』  そこへ院長が割って入って来た。  『婆さんは大人しく、ここで待ってる方が良いと思うぞ。年寄りが車に乗ると、直ぐにゲロゲロ始めちまうんだから』  『そんな言い方しないの! もう、院長ったら・・・』  そう言ってのんに向き直ると、博美は続けた。  『そういうわけにもいかないでしょ? のん婆ちゃんは、文江お婆ちゃんからお預かりした大切なお客様なんだから』  『そんなこと、気にしなくていいのに・・・ それより文江ちゃんの容態はどうなの?』  『えぇ、思ったより元気にしてるの。食事もちゃんと食べてるし。病院食じゃ足らないらしくて、売店でお菓子を買ってきてくれ、なんてお願いされるほどよ。一時はどうなることかと思ったけど、今では普通に会話できてるわ。本当に良かった』  『そう、それは良かった・・・ でも』  『でも?』  『私、いよいよだと感じるの。もう退院は出来ないと思う』  復調した文江をネタにして、院長の死期発言を笑い飛ばしてやろうと思っていたところに、むしろのんからそのような言葉が飛び出してきたことで博美は面食らってしまった。言葉を失って固まる博美に、院長が声を掛ける。博美の脳が、のんの言葉を消化するのを手伝ってやるつもりで。  『あの婆さんとこの婆さんが、もう一度顔を合わせることは無いということだな』  猫たちが感じているのもは決して気のせいなどではなく、当人たちは確証を持って口にしているのだと、その時改めて感じた。それを口にするということは、彼らにとっては宣告(・・)を読み上げているようなものなのだ。軽々しく笑い飛ばせるような代物ではないのかもしれない。
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