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6
「お婆ちゃん、林檎食べる?」
「有難う、博美先生。頂くわ」
「やだ、先生だなんて。博美でいいのに」
「あらそう? じゃぁ博美ちゃんって呼ばせてもうらうわね」
「うふふふ」
その風景を写真に切り取ったならば、誰の目にも仲の良い祖母と孫娘にしか見えない、微笑ましい一枚が出来上がることだろう。そう思いながら博美は、フルーツナイフで林檎の皮を剥き始めた。だが同時に、文江の自宅で見た殺風景な部屋の様子が思い出される。今、目の前にいる文江があの場所にいたなんて、どうしても信じられないのだ。それはまるで流れを失った鏡のような水を湛える、人々に忘れ去られた沼に浮かぶ小舟の様ではないか。何処に行く当ても無く、櫂を失い自ら動くことも出来ずに、心細く水面を漂う文江のイメージをどうしても振り払うことが出来なかった。博美の心の中では、猫たちの言葉がついえることの無い不思議な木霊の様に繰り返されていた。
『あの婆さん・・・ 死期が近いぞ』
『もう退院は出来ないと思う』
博美のそんな気も知らず、文江は元気を取り戻しつつあった。勿論それは喜ばしいことなのだが・・・
「のんちゃんは元気でやっているかしら?」
文江の言葉にハッと我に返った博美は笑顔を作った。
「えぇ、とっても元気ですよ。ウチの飼いネコ ──院長って名前なんですけど── とも仲良くやってるみたいで」
林檎の皮が、プツリと切れて落ちた。
「そう? それは良かった。私、のんちゃんのことだけが心配で心配で」
心配だと言いながらも、彼女がのんちゃんの話をしている時は、とても嬉しそうだ。足元に落ちた皮の切れ端を拾いながら、博美は尋ねた。
「どうして『のんちゃん』って名前なんですか?」
文江は少女のような悪戯っぽい笑顔だ。
「実はね、のんちゃんの本名は『紀子』って言うの」
「ノリコ!?」
「そう、紀子。私が幼かった頃の一番仲の良かった友達、紀子ちゃんから貰ったのよ」
紀子は空襲によって命を失っていた。敗戦間近と誰もが感じていた頃、民間人を狙ったB29の無差別爆撃により逃げ場を失い、瓦礫の下敷きとなったまま焼け死んだのだった。あと少し。あと少しを切り抜けさえすれば、愚かな戦争の犠牲になることはなかったのに。
共に手を繋いで防空壕に逃げ込もうとしていた時のことだったらしい。いきなり近くで焼夷弾がさく裂し、文江は吹き飛ばされた。幸運にも文江は、慈悲の無い焼夷剤の飛散に晒されることも無く、爆風によって建物と共になぎ倒されただけだった。しかし気が付くと、さっきまで手を繋いでいた紀子の姿が見えない。紀子は文江ほど幸運ではなかったのだ。文江は大声で紀子の名前を叫びながら、付近を探し回ったという。空襲警報が鳴り響くさなか、よくも誰かを探し出そうと思ったものだ。焼夷弾によって街は炎に包まれ、モタモタしていたら逃げ遅れてしまうかもしれない状況にである。それだけ二人は固い友情で結ばれていたということなのだろう。
遂に文江は、瓦礫の下で苦しむ紀子を見つけ出した。防空頭巾は何処かへと吹き飛んで、頭の傷から流れ出る血は彼女の色白の顔に無残なコントラストを描いている。文江は紀子の腕を掴み、必死で引っ張り出そうとしたが、その時になって初めて気が付いたという。自分の左の二の腕が大きく裂傷し、血管と共に内部の筋肉繊維が、不気味に垂れ下がっていることを。その傷の後遺症は今でも残っており、文江の左手は幾分不自由だ。残る右腕一本で、紀子の腕を引っ張った。全体重をかけて引っ張った。しかし紀子は痛がるばかりで、その身体は一向に抜け出てくる気配は無い。今度は彼女を圧し潰している瓦礫をどけようと試みるも、小さな子供の、しかも一本の腕ではどうすることも出来ない。文江は大声で助けを呼ぶが、そんな状況で助けてくれる者など有るはずもない。たまたま通りかかった婦人には聞こえない振りをされてしまった。別の男性は、「お嬢ちゃんも早く逃げな」と言ったきり、足早に走り去っていった。彼女の行き場のない声は、燃え上がる街から立ち昇る煙と共に、昭和の夏空へと吸い込まれていった。
そうこうするうちに、街を覆い尽くす炎がジワジワと迫って来た。瓦解して積み重なる家々の残骸は、木の葉のようにいとも容易く燃え上がる。文江は益々強く紀子の腕を引いた。紀子の背後からは炎が迫る。「痛い、痛い」という紀子の悲痛な呻き声は、いつしか「熱い、熱い」に取って代わられた。
「のんちゃん! のんちゃん!」
「文ちゃん・・・ 熱いよ・・・ 熱いよ・・・ 助けて・・・」
「のんちゃん! のんちゃん! のんちゃん!」
文江は半狂乱になって、紀子の腕が抜け落ちんばかりに引っ張った。引っ張れば引っ張るほど、それにつられるかのように炎が近付いて来る。今や邪悪な炎は、紀子の下半身を飲み込みつつあった。
「のんちゃん! 頑張って! のんちゃん!」
「がぁぁぁ・・・ ぐぅぅぅ・・・」
紀子の反応は鈍く、もう言葉は失われた。そして木材が燃える匂いに、鼻を突く不快な匂いが混じり始めた。紀子の髪に火が燃え移ったのだ。朱色の炎の向こうで紀子の髪がチリチリと音を立て、いくつもの明るく小さな点が瞬きながら髪の毛に沿って移動するのが見える。そして右腕一本を残し、紀子の全てが炎に包まれた時、その手から文江の手を握り返す力が消えた。メラメラと揺らめく炎の奥で、紀子の虚ろな両目が文江を見詰め返している。頭髪の失われた頭皮はめくれ上がり、無残な丸みを露呈させていた。熱により血液が沸騰し、紀子の顔がグジュグジュと焼かれてゆく間にも顎先を舐めるように回り込んで立ち昇る炎は、伽藍堂のように開いた口に飲み込まれていった。いつもにこやかな笑みを湛え、文江に笑いかけていた両目は、今や無表情な面に穿かれた漆黒の闇と化し、迷い込んだ光を貪欲に飲み込み続けていた。
一番大切な友人が目の前でジワジワと焼け死んでゆくのを目の当たりにするという経験は、文江の中にどのような傷跡を残したのであろうか? まだ幼かった彼女の無垢な心は、それをどうやって飲み下したのであろうか? 考えれば考えるほど、文江の壮絶極まる経験が、博美の心を引き千切りバラバラにしたそれを床にぶちまけた。散りぢりになってしまった博美の心の断片たちは、それぞれが勝手に恐怖に怯え、苦痛を訴え、悲しみに打たれ、絶望に沈み、何か一つにまとまった感情のようなものを形作ることが出来なくなってしまった。文江の何も無い生活は、ひょっとしたら惨たらしく命を落とした親友への追悼かもしれず、助け出すことが出来なかった自分への断罪かもしれなかった。唯一の救いは、その話をしている時の文江が、苦し気でもなく悲し気でも無く、ただ昔を懐かしむような静かな空気を纏っていたことであろうか。この悲惨な想い出を、むしろ慈しむような表情で語る姿は、博美の心を激しく粟立たせた。どんなに辛かった経験も、時間という軸に乗せられた瞬間に、少しずつ風化を始めるのかもしれない。だがもし自分が同じような経験をしたら、今の文江の年齢になった時に彼女と同じように語ることが出来るのだろうか? 博美には全く自信が持てなかった。
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