第八章:のん(日本猫♀)

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7  その翌日。博美は文江に頼まれた箸を持って、今日も病院を見舞うつもりであった。病院が用意する箸やスプーンではなく、使い慣れた自分のものが食べ易いのだと言う文江の為に、今日、彼女の家に寄ってから見舞う予定だ。  『のん婆ちゃん? 今日も文江お婆ちゃんの所に行ってくるねーっ』  そう声を掛けながら博美は、入院患者用のケージが並ぶ部屋に足を踏み入れた。今は他に入院患者がいないので、この部屋はのんが独占している。入り口横の壁に取り付けられた室内灯のスイッチを入れながら見渡すと、何故か足元に院長が座っていた。それは丁度、のんのケージの前だ。  『あら、院長! どうしたの、珍しいわね。のん婆ちゃんのお相手してくれてたのかしら?』  院長はのんのケージから顔を逸らし、博美の方を見た。だが珍しく、何も言わなかった。いつもなら生意気な憎まれ口を叩くのに、今日に限って彼は何も言わないのだ。  『な、何よ、院長? どうしちゃったって言うのよ?』  そう言って近づく博美に、院長は顎をクィっとしてケージの中を見るように促した。  そのケージの中で、のんは丸くなって眠っていた。警戒心を失った家猫の、長閑な姿だ。博美は思わず、フッと笑った。だが、それと同時に不思議な感じが博美を襲った。何だかこの部屋の温度が少し寒過ぎるような気もする。  『のん婆ちゃん・・・?』  博美の問い掛けにのんが耳をパタパタすることも無く、片目を開けることも無かった。のんは冷たくなっていた。ハッと息を飲む博美の傍らで、院長が言った。  『最期まで、あっちの婆さんのことを心配していたぞ。自分の死期の方が近いことも知らずに・・・』  それを聞いた博美の顔に驚愕が張り付いた。  『・・・何? ・・・院長・・・ 知ってたの?』  『当たり前だ。猫には死の匂いを嗅ぎ取る力が有ると言っただろ?』  『じゃ、じゃぁ何? のん婆ちゃんも自分の死期を知っていたの?』  『いや・・・ それは知らなかったと思う・・・』  『???』  『どうしてなのかは私にも判らないのだが・・・ 猫は自分の死に関してだけは、その匂いを嗅ぎ分けることが出来ないのだ。だからこの婆さん猫も、自分の死は予期していなかったと思う』  『どうして言ってくれなかったのよっ! なんで黙ってたのよっ!』  『言ってどうなる!? それで寿命が延びるのか? そもそもお前だって、薄々は感付いていたんじゃないのか? 獣医として』  『・・・』  『もし私がそのことをお前に告げたとして、そうと知ったお前が、それを悟られずに婆さんと接することが出来るのか? 猫は人間ほど鈍感ではないのだぞ。お前の稚拙な芝居など、直ぐに見破られてしまうに決まっている。違うか?』  『う・・・ そ、それは・・・』  『そんな不本意な形で、最期を宣告される者の気持ちを考えろ。時に善意ほど、相手を傷付けるものは無いのだということをな』  『でも院長は、一晩中のん婆ちゃんに付き添ってあげてたんでしょ? それって同じことじゃないの? 院長がそんなことをしたら、のん婆ちゃんが気付いちゃったんじゃないの?』  もう博美は駄々をこねる子供の様だ。メソメソと泣きながら、生産性の無い反論を繰り返した。  『そうだな。さすがに婆さんも、最後には気付いていたな。だが、そこは猫同士だ。お前たち人間が入り込めない関係性が、そこには有るのだと思って諦めてくれ』  『ズルい・・・ ズルいよ・・・ 院長だけ、ズルいよ・・・』  博美はいつまでも、少女のように泣き続けた。そんな博美に院長が言った。  『あっちの婆さんには、このことは隠しておくことだな』  その日の午後、文江の病室を訪ねた博美は、息が詰まる様な息苦しさを感じていた。のんが死んだことを文江に悟られてはならない。そう思っただけで、いつものように屈託なく笑うことが出来なかった。院長の言う通りだ。私に嘘をつき通せる演技力など有りはしないのだ。  そんな博美の気苦労も知らずに、文江は今日ものんのことを心配ばかりしている。やれ、夜中に鳴いていないか? やれ、水は一日二回取り換えてくれてるか? やれ、歯が悪いのでハードとソフトを混ぜたご飯を与えてくれているか? などなど・・・ まことに細かな指示が、のんの世話に関して言い渡されていた。それも何度となく同じ話が出るのだった。ただ、そんな話をしている時こそ、文江は幸せそうに見えるのだ。きっと、微に入り細を穿ってのんの世話をすることだけが、彼女の生き甲斐なのかもしれない。そんな文江に、のんが死んだなどとどうして言うことが出来ようか?  「はぁ~・・・ のんちゃんに逢いたいわぁ・・・」  博美の心臓が、ドキリと縮みあがる。  「本当に、逢わせてあげられたらいいんですけどね・・・ やっぱり病院ですから・・・」  「そうよねぇ~。やっぱり病院だもんねぇ~」  博美は引き攣った笑いを向けることしかできなかった。  なんとか、ギクシャクした ──ギクシャクしていたのは博美だけだったが── ひと時を乗り切った(・・・・・)後、病院の廊下をエレベーターに向かって歩いている時のことだった。丁度、ナースステーションの前を通り過ぎようとした際、カウンター内にいた年配の看護師に声を掛けられた。  「下村さんのご家族の方ですか?」  文江に身寄りが居ないことは、看護師たちも知っているはずだが・・・ どう声を掛けて良いか判らず、そんな風に言ったのだろうと博美は思った。そして、入院当初と同じことを、再び告げた。  「いいえ、身内ではないんです。お友達です。文江お婆ちゃんにはご家族がいらっしゃらないみたいで・・・」  「あぁ、そうでしたね。・・・で、チョッとお話が有るのですが・・・」  看護師は窺うように博美の目を覗き込んだ。「あなた以外に話す人が居ないんですよ」彼女の目はそう告げていた。博美は答えた。  「えぇ、もちろん」  ギュッと噛み締めた唇から、嫌な味がしたような気がした。
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