第八章:のん(日本猫♀)

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8  看護師に連れられて訪れた診察室には、文江の担当医が安っぽい椅子に座って机に向かっていた。博美の姿を認めた彼は、その椅子をキコキコ鳴らしながらこちらを向くと、左手を差し伸べて目の前の丸椅子に座るよう、博美に促した。その医師の座る椅子が、自分の動物病院にある椅子と似ているなどと、どうでも良いことが博美の頭の中に湧いて出たが、急いでそれを打ち消した。  その医師は博美が座るのを待って、冷めた口調で告げた。  「下村さんは緑内障を患っておりまして、いずれ・・・」  「緑内障!? それって・・・」  「はい。残念ながら・・・」少しも残念そうではないが。  「い、いつまで見えるんですか? 完全に失明するのは、いつ頃なんでしょうか?」  そういえば文江が、博美と目を合わせないようにしていると感じたことが有った。それは目を逸らしているわけではなく、博美の目が何処に有るのかが判らなかったということか? 湯飲みのお茶を手渡す時だって、何となくおぼつかない様子だったのは、見えなかったからなのか? 焦点の合わない視線を窓の外に投げかけながら、ぼんやりと過ごしている文江を見て、昔のことを思い出しているのだろうなどと呑気に考えていた自分は、ただの無神経ではないか。今にして思えば思い当たることが多過ぎて、博美は言葉を失った。医師は言い難そうに答えた。  「もう既に・・・ 殆ど見えていないのではないかと思います。ご本は決してそのようなことはおっしゃらないのですが」  その言葉を聞いた博美の頭の中で、取り留めも無い考えが次から次へと湧いてきては、シャボン玉がはじけるように消えて行った。医師の「私どもといたしましては・・・」、「看護師たちにも・・・」、「もう少し頻繁に・・・」などという言葉が微かに聞こえ、そして通り過ぎて行く。何を言っているのだ、この医者は? ただでさえ統率を失いそうな思考回路に、余計な雑音を入れないでと煩わしく思っていたが、それらの言葉が自分に向けて発せられていることに思い至る。つまり、医師の言わんとするところを要約すると、目が見えないことで文江の世話に手が掛かるので、その仕事を博美に肩代わりして貰えないか、ということらしい。混乱する頭で状況を理解し、医師の言うことをなんとか飲み下す。博美が虚ろな視線を医師に返すと、彼は慌てて付け加えた。  「も、もちろん、下村さんのお世話を全てお願いしますという意味ではありません。石井先生が──  私が獣医であることは、既に承知しているようだが・・・ どうして知っているのだろう? いつ教えたっけ? ひょっとしたら文江が看護師辺りに告げただろうか・・・?  ──ご親族ではないことは重々承知しております。従いましてご親族・・・ ではなく、ご友人の石井先生とですね、私どもがここは協力してですね──  いや、そんなことはどうでもいいのだ。もっともっと大切なことが有るはずなのだ。けれども、それが何なのかどうしても思い出せない。直ぐそこにまで来ているのに、出てこない感じが気持ち悪い。  ──下村さんの時間をですね、快適なものして差し上げるべきなのではないかと考える次第でして。そのためには病院側は手厚いサポートを──  下村さんの時間・・・ 文江お婆ちゃんの時間・・・ 時間・・・ 時間・・・  時間!? 時間ですってっ!? そうよ、時間よ!  ──というわけで如何でしょう、石井せんせ・・・」  「もう時間が無いんですよねっ!?」  それまでぼんやりしていた博美がいきなり喰い付いてきて、医師はたじろいだ。胸ぐらを掴み上げんばかりの勢いに、医師の腰が引けた。  「は、はい?」  「文江お婆ちゃん・・・ もう・・・ 長くはないんですよね?」  「は、はぁ・・・ それは私の口からは・・・ ただ、覚悟はしておいて下さいとしか・・・」  「判りました。お婆ちゃんのお世話は引き受けます。ただし一つだけ我儘を聞き入れて頂けませんか?」  「はぁ、我儘ですか?」  「お願いします」  博美は医師に頭を下げた。  『やめろ そんなバカなことを考えるんじゃない! 私に婆さんの振りをしろと言うのかっ!? 冗談じゃない! 頭を冷やせ、博美!』  助手席の足元に置いたケージの中から、院長の悲痛な主張が聞こえてくる。だが博美は、そんなことにはおかまいなしでステアリングを握っていた。  『大丈夫だって。私も上手くやるから、院長も上手くやってね』  むしろ、自分が思い付いた極上のアイデアに浮かれ、ウキウキしているようにすら見えた。院長はまだ諦めていない。何とかして博美の暴挙を阻止せんと必死である。  『お前の「上手くやる」など当てになるかっ! かえって酷いことになるに決まってる! まだ遅くない! やめるなら今だ!』  『やる前からそんな風に言わないでよーっ。きっと上手くいくんだからーっ。のん婆ちゃんとあなた、体格的にもそんなに違わないでしょ?』  取り付く島の無い博美に、院長は半ば諦め気味だ。必死の反論にもため息が混じり始めた。  『何を根拠に、そういう自信が湧いてくるのか、私にはさっぱり判らん。こんな無責任な奴、見たこと無いぞ』  病院の駐車場に車を止めた博美は、鼻歌でも歌い出しそうな勢いで院長の入ったケージを取り上げた。それもその筈。文江の世話に積極的に関与する代わりとして、一度だけ飼い猫を病室に連れて来るという無理難題を病院側に認めさせたのだから。看護師不足の昨今、入院患者の親族が果たすべき役割は多い。さもなくば患者全体に手が回らず、最悪の場合、最悪のケースが起こりうるのが今の病院の実態なのだ。ましてや、親族ですらない博美が文江の世話をかって出てくれたことは、病院側にとっては渡りに船。規則を少々曲げてでも獲得したかった博美の協力であろう。文江のたっての願いを叶えるという大義名分の下、飼い猫を連れて来ることを承諾したのだ。  無論、既に文江の飼い猫であるのんは死んでいる。しかし、目の不自由な文江には、それが院長にすり替わっていても判らないだろう。そして文江は、再会することが叶わなかったはずの愛猫と触れ合うことにより、何も思い残すことも無く・・・  そこまで考えて、博美はブンブンと頭を振った。文江が他界することを前提で物事を考えることに罪悪感を感じたからだ。愛猫と再会したことにより、文江が活力を取り戻すことだって有り得るではないか。元気になって退院すら出来てしまうかもしれない。博美はそう考えることにした。  病院のエントランスの自動ドアが開く瞬間、博美は院長に声を掛けた。  『これから暫く、あなたはのんちゃんだからね。よろいしくね』  『もう、勝手にしろ』  院長はケージの中で丸くなった。
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