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9
病室のドアを開けた博美は、いつもより元気な声で話しかけた。
「文江お婆ちゃん! のんちゃんを連れてきたよ」
殆ど目の見えない文江でも、その目を大きく見開いて博美の方を振り返る。
「えっ? のんちゃん? のんちゃんを連れて来てくれたの?」
文江の顔にパッと花が咲いたようだ。
「へっへ~。お医者様に無理言って許可貰っちゃった」
博美は悪戯っ子のような表情で、ペロリと舌を出した。だが文江には、それは見えなかったようだ。ベッド横の丸椅子に腰かけた博美は、膝の上に乗せたケージを開けて院長を取り出した。
『にゃぁ~』
どうやら院長は、のんの声真似をしているようだ。いつもと違って、少ししわがれた声で鳴いた。文江は両腕を伸ばして、「早く抱かせて」と催促している。博美はその両腕に院長を託し、そっと見守った。上手くゆきますように・・・。
「あらぁ~、のんちゃ~ん。元気だったぁ? 私、心配してたのよ~。あなたが寂しがってるんじゃないかと思って、夜も眠れないくらい」
ヒシと抱き上げた院長に頬ずりをしながら、文江はいつまでも話し続けた。院長もそれに応じて、自分の鼻先を文江に押し付けた。そんな二人の様子を見詰める博美の目には薄っすらと涙が溢れ、自分の意図した通りに事が運んでいることに安堵した。やっぱり院長を連れてきて正解だ。楽しそうに院長に話しかける文江を見て、博美も幸せな気分に浸る。
ひとしきり猫と触れ合った文江は、満足げな表情で博美に言った。
「有難うね、博美ちゃん。私、のんちゃんの元気そうな様子を見て、なんだか元気が出ちゃった。私も負けていられないぞ、って。またのんちゃんと一緒に暮らせるように、早く退院しなきゃ」
文江は少女のように、にこやかな笑顔で小さなガッツポーズを決めた。ベッドで体を起こしている文江の膝の上では、院長が丸くなっている。文江は飽きることも無く、その柔らかで温かい頭を撫で続けていた。
「そうですよ、文江お婆ちゃん。お家の方は、いつでも帰れるようにしてありますから。安心して帰って来て下さい」
「有難う。有難う。本当に色々有難う」
文江は博美に向かって手を伸ばした。それを見た博美は直ぐに、宙をまさぐる様に伸ばされた手をこちらから迎え入れて、しっかりと受け止めた。そしてその枯れ枝のように痩せた手を両手で包み込み、ギュッと握りしめた。その手には、博美には計り知れないほどの長い歴史が、皺となって刻まれているのだろう。きっと悲しいことが一杯有ったに違いないのだ。それは楽しかった思い出よりも、ずっとずっと多いのかもしれない。でも最後に、楽しい思い出を作ってあげることが出来たと思う。
本当は、これが最後にならないことを心の底から望んでいるのに。そう考えると何かが込み上げてきそうになる博美は、その愛おしい手を包み込む両手に力を込めた。そして声を出さずに「ううん」というように首を振る。もし、ここで声を出してしまったら、その何かが堰を切って溢れ出してしまいそうだ。文江の目には首を振る博美の姿は映ってはいなかったが、その気持ちは伝わっているようだ。文江はもう一度言った。
「有難う。有難う」
帰りの車中、院長は不機嫌に黙り込んでいた。のんの身代わりをさせられたことを根に持っているのかもしれない。いつも口の減らない彼が、ムッスリと黙り込んでいる様は、何とも言えず可笑しい気持ちを博美に抱かせた。博美は笑いながら問いかけた。
『まだ怒ってるの? でも良かったじゃない。文江お婆ちゃん、すっごく喜んでたよ。今度、あなたの大好きなチャーシューを買ってきてあげるからさ。そんなに怒らないでよ』
それでも院長はご機嫌斜めだ。『フンッ』と鼻を鳴らすと、そのままケージの中で目を瞑った。博美は文江の楽しそうな顔を思い出して、一人でクスクスと笑った。
動物病院の駐車場に車を止めた博美は、院長の入ったケージを持って玄関に向かって歩き出した。すると、それを待っていたかのように ──いや、確かに憲治は待っていたのだ。娘が返ってくるのを、今か今かと気にしながら、窓の外を窺っていたのだった── 玄関が勢いよく開いた。サンダルをちゃんと履く間も惜しんで、足に引っ掛けたままペタペタと不格好な様子で走り出て来た父を、博美は怪訝そうに見詰めた。
「どうしたの、お父さん? そんなに血相を変えて」
「携帯に電話したんだが、やっぱり運転中だったか?」
「あっ、ゴメン。マナーモードにしてた」
「ついさっき、病院から電話が有ったんだよ。下村のお婆ちゃんが、今しがた亡くなったそうだ」
「えっ・・・?」
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