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あの夜、文江は安心したかのように逝ってしまった。のんと ──実際は院長だったが── 触れ合って、思い残すことが無くなったからだろうか。博美と院長が病室を出た後、夕食の配膳に来た看護師が、冷たくなっている文江を発見したらしい。結局、誰にも看取られることも無く、一人静かに逝ってしまったのだ。その死に顔は安らかで幸せそうだった・・・ と言いたいところだが、現実とはそんなにドラマチックではないらしい。文江のその顔には何の感情も示されておらず、ただただ静かな無表情だったという。命の灯がゆっくりと、ただし着実に燃え尽きようとしている時、人はいかなる想いにも邪魔されること無く、水が揮発するかのように消えて行くものなのだろうか。
文江から聞いた断片的な話では、彼女の一生が幸せだったとは、決して言えそうにない。だが、そんな人間が寿命を全うする際に、凪いだ湖面のような無表情で逝けたのであれば、それはそれで悪くはない最期だったのかもしれない。焼却炉から出て来た真っ白な骨を見詰めながら、博美はそんなことを考えた。そう考えることにした。
身寄りのない文江の葬式は、博美が喪主となって慎ましく執り行われた。花輪も無ければ豪華な祭壇も無い。弔問に訪れる者も無く、参列者は博美と憲治、それからケージに入れられた院長の三人だけだ。石井家の宗派である浄土真宗 ──文江の家の宗派が判らなかったので── に則った式の後、憲治は一足先に帰った。その為、この焼き場まで来たのは博美と院長だけになっていた。
全てが滞りなく済んだ。手の込んだ儀礼的な催しも無い葬式は、葬儀屋が提示するレジュメに沿って粛々と消化され、時計が奏でるチクタク音のように規則正しく進んだ。そして終わった。黒い礼服に身を包んだ博美は誰に気を遣うでもなく、院長の入ったケージを抱え、駐車場に停めた車に乗り込んだ。
いつもなら助手席の足元に院長を入れたままのケージを置くのだが、今日はそれを開けて院長を車内で解放した。なんとなく一人で運転したくなかったからだ。狭い空間に長時間閉じ込められていた院長は、助手席の座面にピョンと飛び乗ると、頭をプルプルと振って身体を伸ばす。そしてダッシュボードの上に飛び移ると、そこで毛繕いを始めた。それを見てニコリとした博美は、ゆっくりと車を出す。
『間に合ってよかった。ありがとう。お陰で・・・』
『愚か者が』
院長の予期せぬ反応に、博美が目を丸くした。
『何が? 何のこと?』
『何のことではない。やはりお前は動物の気持ちは判るのに、人の気持ちは判らんのだな? ったく・・・』
『だから何なのよ? いったい、何の話をしているの?』
『あの文江婆さん、私が偽物だと気付いておったぞ』
一瞬、博美の時間が止まった。目を見開いた博美は院長の方を見やったが、その間、彼女は呼吸するのも忘れていたかもしれない。
『バカ者め。浅はかなことを考えるから、そういうことになるのだ。私を連れて来たことで、のん婆さんが既に死んでいるという事実を容赦なく突きつけたのだぞ、お前は。判らんかったのか?』
博美の五感の中で院長の声だけが、唯一感じ取れる物になっていた。視界に映り込む風景も、指先に触るステアリングの感触も、今の彼女の脳にとっては何の行動指針にもなっていなかった。それは目を閉じて運転しているのと、何ら変わるところはない。
『お前の愚かな行為が、文江婆さんの死期を早めてしまったのかどうかは、私には判らん。私たちの面会と彼女の死期が、たまたま符合しただけなのかも知れん。だが少なくとも、可愛がっていた猫の死が彼女の精神面でマイナスに作用したとしてもおかしくはあるまい』
ただ、それこそ動物的な本能のみで運転する博美は、焦点を失った視線を前方に向けながら、機械的に街中をぬって走り続けた。
『もう「想いを残す対象すら失った」のだよ、お前の尽力のお陰でな。退院して再びのん婆さんに逢いたいという儚い希望の糸を、お前が残酷にも断ち切ったのだということを心に刻め』
博美の顔が叱られた子供の様に歪んだ。そしてその肩が震え出したかと思うと、嗚咽が漏れ始めた。ジワジワと溢れ出す涙は容赦なく頬を伝い、糊の利いた礼服の上を滑るように落ちていった。
『だが婆さんはお前の好意を無駄にするまいと、精一杯の芝居をしておったのだろう。今まさに寿命を全うしようとしている老人に、そんな気を使わせてどうするのだ? バカ者が。何度でも言ってやる! このバカ者がっ!』
博美のむせび泣きは止まらない。もう涙なのか鼻水なのかも判らないほど、彼女の顔はグショグショだ。ハンカチを出せばよいものを、ハンドバックは後部座席に放り投げてしまっていた。仕方なく掌で顔を拭うたび、博美の顔はみっともなく崩れて行くのだった。
『バカ、バカ言わないでよ。そんなの・・・ 自分が一番、よく判ってるんだから・・・』
ダッシュボードから助手席に飛び降りた院長は、呆れ顔で丸くなった。情けない声を上げ続ける博美など放っておいて、このまま眠ってしまおうかと思っていた院長であったが、鼻水を啜り上げる音がうるさくて片目を開けた。博美はだらしなく、まだ泣きじゃくっている。仕方なく院長は声を掛けてやった。
『いいから路肩に車を停めろ。泣き止むまで運転するんじゃない』
『うぇっ・・・ うぇっ・・・ ぐすん・・・』
『危なくておちおち寝ていることも出来ん』
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