プロローグ

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プロローグ

 「それじゃぁ少しの間、ワンちゃんを抑えてて頂けますか?」  濃いめの化粧と今時流行らない香水の匂いをプンプンさせたおばさんが、診察台の上の小型犬を押さえ込みながらそれに応える。何をどう勘違いしているのか知らないが、どう見ても飼い犬を動物病院に連れてくるのに適しているとは言えない、ピンクがベースのスーツを着込んでいる。  「はい、判りました先生。ウチのショコラちゃんは本当に注射が嫌いで困ります。コラッ、ショコラちゃん。大人しくしないと先生がチックン出来ないでしょ」  『放せ、このクソババァ! 何で俺がこんな目に遭わなきゃいけねぇんだっ!? お前もお前だ! いっつも注射はするわ、体温計をケツに突き刺すわ。やりたい放題じゃねぇかっ!』  小型犬は飼い主と獣医を代わる代わる睨みつけて歯を剥いたが、それに気を取られている隙を狙って獣医はその首根っこを掴んだ。  「それじゃ、チョッとだけチクッとしますよ~」  『放せっつってんだろ、コラッ! 噛み付くぞ! わぁっ! やめろ! やめてくれぇ~』  怯えて尻尾を巻く小型犬の首筋に、博美はシリンジを突き立てた。その際、ショコラといういかにも在り来たりな名前のパピヨンは、『キャンンン・・・』と情けない声を出し、恐怖に身体を震わせた。  「はーぃ。オッケーでーす」  「ショコラちゃん。頑張ったわね~。偉かったでちゅね~」  ここぞとばかりショコラは叫ぶ。日頃の憤怒やら不平やら不満の爆発だ。  『顔をくっ付けんじゃねぇよ、ババァ! お前の口は臭ぇんだよ! 犬は鼻が良いこと知らねぇのかっ!? まったく嗅いだだけでクラクラするぜ! そもそも、なんで俺がショコラなんて間抜けな名前なんだ!? 犬を外見で判断するんじゃねぇっ! 俺の頭のリボン、取りやがれっ! ガウゥゥゥ』  動物好きの女の子でも事務員として雇えば、随分と仕事が楽になることは判っている。しかし博美は、どうしてもそうする気になれなかった。別にお金をケチっているわけではないのだが、この動物病院で気心の知れない人間を働かせるのには抵抗が有るだけだ。博美は受付カウンターで、ペットフード業者から譲り受けた試供品と共に明細書(・・・)を発行し、ショコラの飼い主から予防接種代+診察代を受け取った。  「じゃぁ、今日はあんまり運動させない様にしてあげて下さいね。なるべく安静に過ごせるように」  「はい、判りました、先生」  化粧品の匂いをプンプンさせた飼い主は、他に患者も居ないことから博美を捉まえて世間話でも始めようとタイミングを計っていたが、それをショコラが吠えて妨害した。  『いいか、憶えてろよ、この野郎! まったくいい迷惑だぜ!』  博美は騒ぐショコラを無視して、にこやかに言った。  「次回のワクチンは半年後です。その頃になったら、またお葉書出しますね」  「はい。次回もまたよろしくお願いします」  『二度と来ねぇからな! こんな病院、潰れちまえっ! 死んだら化けてでてやるからな、憶えておけ! 犬だって化けるんだぞっ! バカバカバーカッ!』  ご機嫌斜めのショコラを小脇に抱えた飼い主は、何度も何度もお辞儀をしながら動物病院の玄関を出て行った。待合室の窓からその後ろ姿が見える。ショコラはまだ飼い主を許せないようで、自分を抱きかかえる彼女の腕に隙在らば噛み付こうと躍起になっている。  『ガウゥゥゥ… ガウゥゥ…』  一人と一匹を乗せた彼女の赤いファミリーカーがヨタヨタと道路に出て、周りの車に景気良くクラクションを鳴らされた。それを見送りながら、博美は「ふぅ~」とため息を漏らした。
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