夏が来る

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「ただいま」  疲れきった表情で娘がリビングに入ってきた。 「お帰り、お疲れさま」 声をかけると娘は保冷バッグをテーブルに置いて、そのまま風呂場へと向かう。 「惜しかったね」 その背中に声をかけた。 娘は「まあそんなもんでしょ」と呟いてリビングを出ていった。  保冷バッグには3本のお茶と塩飴と凍らせたゼリーを入れておいたが、なくなっていたのはお茶一本だけだった。  水分は学校からもこまめに支給されるようだ。ゼリーや飴に手をつけなかったのは、そんな暇がなかったからだろう。    最後の打者が打ち上げた打球がセンターのグローブに収まったとき、一塁側と三塁側とでは種の違う悲鳴が上がった。  試合終了のサイレンを聞きながら、スコアボードに表示された9回裏の✕の文字を無言で眺めた。  悔しい、でも良い試合だった。  真っ青な空に、母校のではない校旗がはためく。それに少しだけ涙が滲んだのは、自分でも予想外だった。  三塁スタンドに駆け寄ってきた泥まみれの選手たちに手が痛くなるほどの拍手を送った。  涙にくれる者、歯を食いしばる者、この夏にかけた選手たちの表情はそれぞれに違ったが、どれも輝いて見えた。  それを思い出すと頬が緩む。  髪の毛を拭きながら娘が戻ってきた。 「あの審判さあ、あん時絶対セーフやったのにアウトにしたよね。マジムカつく」  淡々とそんなもんだと言い切った割に、ぶつくさ呟く娘が誇らしい。きっと彼女も30年前の私と同じで、魔法にかけられてしまった一人なのだろう。 「まあ、来年に期待やね」  娘に言うと、彼女は「別に」と言ったあと、ふっと微笑んだ。  三度しかない夏。  彼らと、彼らに希望を託した人たちの今年の夏は終わった。  土埃を身にまとい、汗と涙にまみれて。  けれど、自分達にチャンスが巡ってこなくても、夏はまたやって来る。  30年も経って魔法にかけられた私のように、今度は応援する立場で球児を見つめる夏が来る。  次の世代へ繋がる、新しい夏が。              fin
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