第十四章 心 前編

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あの日から……優介が珠美の首を絞めたあの日から。 優介は毎晩のように悪夢に苦しめられていた。 あの日を繰り返し夢に見ることによって。 夢はあまりにもリアルで、夢の中では夢と気づけない。 ただただ、優介は珠美の首を絞め上げる。 そして。 珠美の腕が優介の左胸を突き抜ける。 そこで優介は目覚め、今見たものが夢だったと気づくのだ。 正しく悪夢。 これは、この夢は……自分自身に対する戒めだと優介は思った。 罪悪感を失わないための。 本来であれば時がこの心の傷を癒してくれるはずだった。 だが優介は、それを拒んだ。 この痛みを、あの日の想いを忘れてはいけない。 珠美とは……あれ以来、言葉を交わしていなかった。 いや正確には優介が彼女のことを徹底的に避けているのだ。 「合わせる顔ないって……」 もうきっと。 優介と珠美は以前のような関係には戻れない。     「オハヨー」 「おはよう」 昇降口で口々に発される言葉。 出会い頭にみんなはその言葉を口に乗せる。 もちろん、珠美もその一人だ。 「たーまっ!」 下駄箱から上靴を取り出して履いていると後ろからよく知った声が聞こえた。 「おーっはよ!」 「わっ……!」 挨拶を叩き込むかのように彼女は珠美の背中に体当たりをした。 珠美は何とかそれを受け止めたが履きかけの上靴が片方飛んで行ってしまった。 「痛いよ、花」 「ご、ごめんね」 「全く……」 反省したようにしゅんとしたのは、珠美の幼稚園時代からの幼馴染であ る花だった。 いくら言ったってどうせしゅんとするのは今の内だけだ。 明日にはまた同じようなことをするだろう。 ため息をつきながら珠美は脱げてしまった左足の上靴の元へと向かった。 「あ……」 昇降口の先の小ホールまで飛んでいった上靴だけを見ていた珠美は頭の上の方から聞こえてきた小さな声に顔を上げた。 そこにいたのは、優介。 どことなく顔色が悪い。 「おはよう、優介くん」 「……おはよ」 目が合うとさっと逸らして彼は小走りに去っていった。 その後ろ姿を珠美は無表情に見つめる。 そっと近づいてきたのは花だった。 表情を曇らせながら花は珠美の上靴を手に取り、珠美の前に置いた。 「ね、たま……」 「何」 「優介くんと、何があったの?」 「………何も」 靴を足に引っかけ、爪先を何度か床についてキチンと履いた珠美がそう言えば花は小さくため息をついた。 「あんなに仲が良かったのに……何もなくてこんな風になるわけないじゃない」 「私的には何もなかったんだよ」 「……たまの嘘つき」 振り向けば花は怒ったような顔をしていた。 「たまと優介くんが二人で早退した日から二人ともおかしいもん」 「花……」 「たま。自分の気持ちには素直にならなきゃだめだよ……心の声を、ちゃ んと聴いてあげて」 「………」 言いたいことだけ言って花は珠美に背を向けて行ってしまった。
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