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その人に直接会ったことはない。
けれど優介は彼女を知っていた。
この人の顔を、見たことがあった。
相楽家の一室。
仏壇の中で笑顔を見せる、彼女の顔を。
珠美の母を。
やはりここは彼岸なのだ。
でなければこの邂逅はありえない。
だって彼女は十年前にこの世を去ったのだから。
「あ………」
「ストップ!」
思わず彼女に手を伸ばそうとしたとき、鋭い声で制止された。
「私に触れてはダメよ。ここの川の水にも、触ってはいけない」
「え……」
「なぜここに来てしまったの?あなたはまだ、ここに来る運命ではないでしょうに」
珠美によく似た顔で少し責めるような響きを含んで彼女は静かにそう言葉を発した。
「全部、知ってるんですか」
「……ここから……全て見ていたもの」
ずっと、見守っていたと彼女はそう言う。
悲しみを含んだその言葉に、優介の体から力が抜けた。
心が折れた、に近い感覚だった。
知らず知らずのうちにどこかでずっと張りつめていたのだろうか。
体に力が入らなかった。
青々とした匂いのする地面に膝を落とす。
己の手のひらを見つめながら、ポツリポツリと優介は唇を動かした。
考えてもいないはずのそれは、きっと優介の本当の心の声。
「……おれには、これしかできなかったんです。たまちゃんみたいに、たくさんのことができる訳じゃないから。だから。守るためには……これしかなかった」
少ない選択肢の中から優介は選びとった。
どうしても譲れない願いのために、ひとつを選び、ひとつを捨てた。
珠美を生かす代わりに、優介自身を捨てた。
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