第三章

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 そしてまた、平穏無事につつがない一週間が過ぎて、金曜の夕方。  オフィスのデスクで終業のチャイムを聞いたあたしは、さっさと机の上を片付けにかかった。  スケジュール帳をしまいこみ、見落としたメールが無いことを確認。手早くパソコンを落とすと、足ばやに女子更衣室へと向かう。  あの海のドライブから一週間、今夜は響の部屋に遊びに行くことになっていた。  毎日遅くまで忙しい響とは、なかなか平日に会うことができない。メールだけは頻繁に来るけど、声を聞くのは一週間ぶりだ。  今日だけは仕事を放り出して帰ると言っていた響だけど、さすがにチャイムと同時には帰れそうにはない。そこでまず、あたしが先に会社を出てパーティの食材を買い込み、その後に待ち合わせをして彼の部屋へと向かうことにしていたのだ。  更衣室のドアをノックする。 「どうぞ」  内側から澄んだ声が聞こえた。  ドアを開けると、声の主は安藤奈津美さんだった。もうすっかり帰り支度を終えて、ロッカーの鏡の前でピアスを飾ろうとしている。 「今日は早いんですね」  当然一番乗りだと思っていたから、ちょっとびっくりした。 「うん、ちょっとね」  言いながら首を伸ばし、鏡でピアスを確かめてる。  そのピアスは前にいちど見せてもらったことがある。淡水パールに水晶をあしらったもので、小さくて繊細な作りの素敵なピアス。控えめだけど清楚な美しさが見る人の印象に残る、奈津美さんにお似合いのアクセサリーだ。たしか彼女の、いまいちばんお気に入りのアクセサリーだったはず。 「そのピアスしているってことは、デートですか?」  聞いてみた。 「さぁ、どうかしら?」  奈津実さんはクスッと笑うと、ショートコートを腕にかけてクルリと振り向いた。  マーメイドスカートの裾がフワリと広がる。 「でも、そういう浅倉さんだって早いじゃない?今週ずっとウキウキだったみたいだし、あなたこそカレと待ち合わせ?」  小首をかしげてあたしを見た。  その、まるで高校時代に夢中になったトレンディドラマのワンシーンのようなあざやかな身のこなしに、女のあたしでさえ目を奪われてしまう。そんなしぐさがまったく嫌みにならないこととあわせて、さすがは奈津美さん。 「さぁ、どうかしら?」  まねをして答えた。  そしてふたりして笑った。  彼女、安藤奈津美は、同じ総務部秘書課の3つ上の先輩だ。お世話をしているのは社長で、入社2年目からだからすでに6年目になる。  これまでも同じ役員秘書として、いろんなことを教えてもらったし、相談にものってもらった。そういう意味では大先輩なのだけど、奈津美さんがあたしと並んでもすこしもそうは見えない。それはひとえに彼女の清楚で愛らしいルックスのせいだ。  昔から、あたしの会社の女の子には、5つの椅子が用意されているという話がある。椅子は一人がけで種類は5つ、つまり座れる子は5人と決まってる。ずっと椅子の数は変わらず、一人が下りればまた別の一人が座る。それの繰り返し。  そしてその5つの椅子のうちのひとつに、奈津美さんは入社してからもう7年間ずっと座っている。それは、彼女が座った椅子の種類と年齢を考えると、驚異的なことだ。  じつをいうと、かつてはあたしもその椅子のひとつに座っていた。  ラッキーなことに、あたしが入社したとき、たまたま椅子がひとつが空いていたのだ。以前そこに座っていた人は、2年前に結婚を機に退職していた。  その椅子は、女の子にとって、それは座り心地のいい椅子だった。そして、気づいたらその椅子に座っていたあたしは、その後もずっとその椅子に座っていられるつもりでいた。  しかし、入社してわずか1年で、あたしはその椅子を下りることになった。  というより、正しくは引きずり下ろされたのだ。 「おつかれさま。じゃあ、お先にね」  見とれそうな笑顔を残して、奈津美さんは更衣室を出て行こうとした。  ドアを開く。  とそのとき、ちょうど外から入ろうとしていた人と、はち合わせになった。 「ごめんなさい」  奈津美さんの声と前後して、 「おつかれさまです」  外から声がした。  その声を聞いた瞬間、あたしはとてもイヤな予感がした。 「おつかれさま。櫟(くぬぎ)さん、今日は早いのね」  奈津美さんが言った。  やっぱり、いやな予感というのは当たるものらしい。 「いいえ、私はまだ仕事が残ってるんです。週末だからといって、早くは帰れなくて」 「たいへんね。でも頑張って。じゃあ…」  屈託のない口調で言うと、奈津美さんはドアの向こうに消えていった。  そして代わりに入ってきたのは、3年前あたしを椅子から引きずり下ろした張本人、法務部の櫟璃子だった。 -----  くっきりした目鼻のシャープな顔立ち。  スリムで手足の長い抜群のスタイル。  綺麗にシャギーの入ったロングヘアと、コンサバなスーツの着こなし。  3年前に入社してきた璃子は、『ツンと気の強そうなキレイ系お姉さま』の椅子を、いともあっさりとあたしから奪った。  有名私大の準ミスキャンパスに選ばれ、キー局のアナウンサー試験で最終選考まで残ったという美貌は絶大で、朱美さんをして「浅倉が勝ってるのは胸のデカさくらいかな」と言わしめるほどの完敗だった。  やれ契約書のチェックだ、覚書の作成支援だにかこつけて、彼女のもとを訪れる男子社員はひきもきらず、その数たるや、あたしの入社時にのぞきにきた男どものゆうに数倍にのぼったらしい。  もっとも、あたしとしては、そんなことに腹を立てるつもりなどさらさらない。外見で争う気はないし、そもそも人の美しさは内面を含めた総合的なものだと思ってる。さらには美しさなんて主観的なものであって、人の好みでいくらでも変わるものなのだし、それから……、えっと……、ま、とにかく、自分がその椅子を奪われたことに、ムカついてるわけじゃないのだ。  璃子の問題はその性格にある。  やたら気が強くてタカビー、いい加減なところがあるくせにプライドばかり高くて、そのくせどこか屈折したところのあるどうしようもない女なのだ。 -----  更衣室に入ると、璃子はロッカーを開けて中を覗き込んでいる。ただ、さっき話していたとおり、帰り支度をするわけではなさそうだ。  ずっと楽しみにしていた週末が始まろうとしている矢先に、璃子に関わり合うだけで気分が悪くなる。あたしは、さっさと支度を終えて更衣室を出ることにした。  すると、 「ずいぶん急いで帰られるんですね?」  信じられないことに、璃子の方から話しかけてきた。  馬が合わないのはお互いさま。あたしが一方的に避けているのではなく、璃子もあたしとは話したくないと思っているらしい。こっちがいっこ先輩だし、うわべは失礼な態度をとったりはしないけど、これまではよほどの理由がない限り向こうから話しかけてきたことはない。  そんな璃子がだ。 「うん、ちょっと買い物があるから」  あたしは最小限の答えで誤魔化した。  急に話しかけてきた意図が分からなかったし、なにより下手に『あなたは?』とか聞いたりしたら、『チャイムと同時に帰れるような秘書課と違って、法務部は忙しくて』とか言われそうだったから。  ところが、璃子との会話はそれでは終わらなかった。 「そうなんですか?私、てっきりデートだと思ってました」  わざとらしく驚いてる。 「だったらいいんだけど…」  と、かわそうとするんだけど、 「でも、つき合ってる方がいらっしゃるんですよね?」  さらに探りを入れてくる。  あたしの中で警戒ランプがブンブン回ってる。 「さぁ、どうかしら?」  この場はとりあえず奈津美さん風に切り抜けることにした。そして超特急で帰り支度を終えると、パタンとロッカーを閉めた。 「あたしはこれで」  言おうとした瞬間、 「営業部の峠野君、知ってますよね?」  突然の問いかけに、あたしは固まってしまった。 「話題の三つ星のイケメン君ですもの、知らないわけないですよね?」  璃子はクスリと笑った。  あたしはすっかり混乱していた。 「峠野君?知ってるけど」  とりあえずそう答えた。  璃子の目的がわからない以上は、これ以上話すのは危険だ。 「ちょっと耳にしたんですけど、浅倉さんて、つきあったりしてます?彼と」  いきなり核心を突かれて、ふたたびあたしは固まった。  多少の予測があれば別だけど、完全な不意打ちだとどう答えていいかわからない。  隠す気はないし、認めたっていいんだけど、なぜ璃子がそんなことを聞いてくるのかが不安でならない。 「黙ってるってことは、そうだってことですね」  パタンとロッカーを閉めて、クルリと振り向いた。そんなしぐさも妙に鼻につくあたりは、さすがは璃子だ。  まずい、とあたしは思った。  彼女のペースにはまってるかも。 「ちがうよ。変なことを言われて驚いただけ、つきあってなんかないから」  とにかくいまは否定することにした。そして逆にこちらから問いかけた。 「そんなこと誰から聞いたの?」  すると、 「誰に聞いたかはいえませんけど、この件についていえば、かなり信頼できる人の言ったことなんですよね」  なんか回りくどい。  ほんと、いやな女だ。 「そうなの。でもいきなりそんなこといわれても困るな。だって、つき合ってなんかいないんだもん」  とぼけて言うと、 「そうなんですか。ごめんなさい、おかしなことを聞いてしまって」  いちおうその場は引き下がった。  でも、あたしを見る目は「へぇ、そういうつもりなんだ?」と言っていた。  背筋にゾクッとするものを感じた。  獲物を狙う女豹の目だ。  そう、あたしは思った。
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