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ラブホテルの部屋でコートをハンガーに掛けた。
響のコートも受け取り、隣に掛けてあげる。
すると背中の後ろに、響が近づく気配がした。
コートスタンドに両手を上げた無防備な脇の下を通って、彼の二本の腕が胸の下に回る。
胸板がぴたりと背中に密着し、私は彼に抱きしめられた。
とっさに首を捻って後ろを見ようとすると、唇で唇が塞がれる。
流れるようなしなやかな仕草だった。
ずっと受け身でついてきた響の突然のキスは、ちょっと意外だった。
ただそれ以上に驚いたのは、その流ちょうな身のこなしだ。
抱き寄せる腕も、唇も、滑り込んでくる舌も、どれも柔らかくて少しの気負いも感じられない。
啄むように唇を捲られ、すぐ内側を舌でなぞられると、甘いものが体に走る。
「んっ…」
小さく喘ぎ、背後の彼に身を預け、さらに首を反らす。
すぐに終わると思っていたキスはなかなか終わらず、むしろ熱を帯びてくる。
「んふ…」
体が緩み、肺の奥の空気が、震える吐息となって唇の隙間から漏れた。
そこを見透かしたように舌が滑り込んでくる。
絡め取られるように舌を誘い出され、絡ませ合うとくすぐったくて、とても切ない気持ちになる。
くちゅと小さく水音がした。
立ったままする背後からのキスは、されてる感じがとても刺激的だ。
とくに小柄な私の場合、首を反らして顎を上げ、落とされた唇を受け止める格好になるからなおさらそう感じるのかもしれない。
響は片手をお腹に巻き付けたまま、もう片方の手で胸の膨らみを撫でてきた。
裏地の上で布を滑らすようなもどかしい触り方だった。それが続くと、だんだんと体が焦れ始める。
このままでは、下着を汚すのは時間の問題のように思えた。
不意に指がブラの下のラインをなぞる。所在を確かめるような動きは、その先を予感させる。
甘い期待が滲みだすのを感じた。
そして思った通り、指は、服の上からブラをずらし上げようとした。
とっさに、そっとその手を押さえる。
「シャワーを浴びてからにして」
唇を剥がして言った。
響は動きを止め、コクリと頷いた。
「先に浴びるね」
備え付けのバスローブを手に取り、彼はバスルームへと消えていった。
残された私はソファに腰を下ろす。
溜まった熱を吐き出すように、深く息をつく。
部屋はけばけばしくなく、広く、それなりに清潔な感じがする。広いベッドにゆったりとしたソファ、大画面の液晶テレビやテレビゲームも置かれていて、恋人同士が夜を楽しむ部屋としては充分に合格点を与えられる場所だ。
ただ、この種のホテル特有の殺風景な感じは拭いようもない。
ラブホテルは、裕一と何度も利用したことがある。でも私は、彼の部屋で抱き合うほうがずっと好きだった。声を気にしなければならないマンションも、ふたりで横になると寝返りするのもたいへんな狭いベッドも、少しも気にならない。むしろ、彼の生活の場で、日常の一部として愛されることが嬉しかった。
そういう意味では、ラブホテルだって、高級ホテルのスイートルームだって、それほど大きな違いはない。
うつむいたままソファに座っていると、響が使うシャワーの音が聞こえてきた。
顔を上げ、音の方を見た。
響のキスは、とても上手だった。
キスだけじゃない。女の体の扱いに慣れている感じがした。
唇や舌使い、指使いのどれをとっても嫋やかで、私が残った理性を振り絞って止めなければ、あのままシャワーを浴びることなんてどうでもよくなっていただろう。
いまだって、私の体は続きを求めている。早くシャワーを浴びてあのベッドに上がりたい。そんな気持ちがないわけはない。
ただ、体がそれを望めば望むほど、やるせない気持ちが胸を締めつける。
モラルに縛られているわけじゃない。無節操に体を開くことは論外にしても、いろいろな愛の形があることを否定する気はない。誰だって一夜の恋に落ちて愛し合うこともあるだろうし、そんなアバンチュールに憧れる気持ちだってある。
でも今夜、このまま響に抱かれることには、それとは別の怖さがあった。
迷い込んでしまった迷宮を、やみくもに奥へと突き進もうとするかのような怖さだ。
シャワーの音が止まった。
少しして、バスルームの扉の開く音が聞こえた。
私は、膝をそろえた姿勢でソファに座りながら、響が現れるのを待った。
「シャワー、いいよ」
白のバスローブを身につけた響が言った。
彼はソファの近くまで来ると身をかがめ、テーブルに置かれたテレビのリモコンを手に取ろうとした。
「ごめんなさい」
私の声に、彼の手が止まる。
そのままの姿勢で、上目遣いにこちらを見てる。
「やっぱり、私……」視線が居たたまれなくて瞳を伏せた。「私から誘っておいて、身勝手だってわかってる。でも……、ごめんなさい」
響はかがめていた体を起こした。
私は、ビクッと体を震わせて、身を縮めた。
「だいじょうぶ、襲ったりしないから」
彼は可笑しそうに笑った。
上目遣いに表情をうかがう。
私は、正直ほっとしていた。今この状況で、ふざけるなとでも言われたらどうすることもできない。最悪、ベッドに引きずり込まれ、レイプまがいに抱かれたとしても逃げようのない状況なのだ。響ならそんなことはしないだろうと確信が持てるほど、私は彼を知らない。
響は、リモコンを取り上げるのをやめ、ソファの反対の端に腰を下ろした。
「だったらしかたがないね」驚くほどあっさりと彼は言った。「ただ、もう電車はないけど……」
「タクシーを使うから」
「でも、高いし、お金がもったいないよね」
私は、探る目で彼を見た。
「もう入っちゃったんだから朝までいない?さっき言ったとおり、襲ったりしないから。少し眠ってもいいし、嫌ならテレビかなにか見ててもいいし」
私はちいさく頷いた。
彼の言葉は信じられそうだったし、深夜にタクシーで帰ったりしたら、驚いた母に余計な詮索をされるだけ煩わしい。
「なにか飲む?」
響は勢いをつけてソファを立ち上がった。
冷蔵庫を開けてのぞき込む。
「ビールはもういいよね。あとは、コーラかオレンジジュース、それに烏龍茶にミネラルウォーター」
彼は私を見て、視線で答えをうながした。
「じゃあ、烏龍茶をいい?」
「了解」
歯切れ良く応えると、彼は二本の烏龍茶を手にソファに戻ってきた。
「テレビ、つける?」
私は首を振った。
手渡された烏龍茶の口を開け、ひとくち飲む。
「ほんとうに、ごめんなさい。私から言っておいて」
もういちど謝ると、「もういいよ」と響は笑った。「たしか、前にもこんなことあったんだよね」
軽い口調で言った。
「それって、今日みたいな感じでホテルに来て?」
「うん、なんていうか、一緒に飲んでてそのままって感じ」
「相手の子が嫌がったの?」
「ううん」響は首をすくめた。「直前で始まっちゃったんだ」
「まあ」と私は言った。
「なのに、むしろ相手の子のほうがすごい不機嫌になっちゃってさ。たいへんだったんだから。一生懸命になだめたのに、平手打ち食らったんだ」
「えっ、ひどぉい」
思わず笑ってしまった。
「その夜は踏んだり蹴ったりだったよ」
戯けた表情で、溜息をついている。
私の気持ちを持ち上げようとしてくれてる彼の心遣いが伝わってきた。
「それにしても、その子、すごい子ね。平手打ちって、ドラマじゃあるけど実際はなかなかないよ」
「だよね。されるほうだって、不意打ちでされるとかなり痛いし」
「でも、私もしたことあるんだ」
「平手打ち?」
響は驚いた顔をした。
「そう、一回だけ」
「誰に?」
「恋人だった人」
私と裕一が終わった日のことだ。
ただこれだけで、一度持ち上がった気持ちが、ふたたび沈みそうになる。
やっぱり、今夜の私はおかしい。これくらいの思い出話で心が揺れるなんて。
ほんとうは、こんな夜には誰とも話さずにひとりでいた方がいい。でも、こんな夜ほど誰かと話したくなくなるものなのだ。
「私って、こう見えて意外と気が強いの。高校のころまでは、髪も男の子みたいに短くて、女の子みたいな男の子、みたいな女の子だった」
「僕は、女の子みたいな男の子だって、よく言われてた」
その言葉にちいさく笑った。
「高校でアーチェリーをしてたの。男の子と一緒に練習するでしょ。負けるとすごく悔しくて、腱鞘炎になるまで練習したこともあった。あのころは、なんでもはっきりと白黒をつけて、それを言葉にしなければ気がすまないような子だったの」
「いまは?」
「いまは変わった。大学に入って、髪を伸ばして、モデルのお仕事をするようになってからかな。嫌なことがあっても笑ってられるようになった。今のお仕事を始めてからはなおさらよね」
「大人になったんだね」
「そういうことなんでしょうね。今夜だってそう。私、今夜、とても嫌なことがあったんだ。とってもついてなくて、むしゃくしゃしてて、あなたとテーブルを挟んでお酒を飲んでるときなんて、もう、目の前のテーブルをひっくり返したいくらい怒ってたんだから」
頬を膨らませると、
「わかってた」
響は悪戯っぽく笑った。
「ほんと?」
思わず見返す。
「嘘」
あっさり言った。
「意地悪」
睨んだ目をすると、響は首をすくめた。
「怒ってるとか、そんなふうには見えなかった。てっきり……」
「てっきり?」
「泣きたいんだと思った」
私は驚いた目で響を見た。
会話が止まる。
自分でも気づかなかった気持ちを、あっさり言い当てられた気がして、何か言おうとしたけれど何を言っていいのかわからなくなった。
心の奥に閉じこめていたものが、ひとつ、またひとつ溢れ出してきて、収拾がつかなくなる。
さんざんだったホテルでの出来事。でも、ひどいことをしたのは私のほうだ。高辻は、彼なりの想いで、私のために最高の夜を用意しようとしてくれた。その彼の気持ちを、私は身勝手な嘘で踏みにじった。あのとき感じた怒りは、そんな自分自身に対して向けられたものだ。
あの場に裕一が現れたことは、たしかに不幸な偶然だった。しかし、高辻の妻になろうという私が、彼とホテルの部屋に消える姿を見られてそれがなんだというのだ。もしも裕一が現れなかったとしても、けっきょく私はあの場から逃げ出したのではないのだろうか。
私は高辻と結婚したかった。本気でそう思っていた。それは、彼が、いまの私に考えられる最高の条件の男だったからだ。裕一を捨てた以上、本当に愛する人と結ばれることをあきらめた以上、中途半端な男となんか結ばれたくなかった。裕一と引き換えにするに相応しい、最高の未来を手に入れたかった。
そして、もうあと少しで、私はそれを手にするはずだった。
なのに……
「ほんとうに、意地悪なんだから」
やっと口にした言葉は、ちいさく震えていた。
「ごめん」
慌てた声で、響が言った。
しかし、もう遅かった。
瞳の端から溢れ落ちた涙が頬を伝う。慌てて手の甲で拭おうとしても、次から次へと零れ落ちる涙は、止める術がなかった。
バッグを手繰り寄せ、取り出したハンカチを口に当てる。
私は、声を上げて泣きはじめた。
大人になったとしても、人の本質なんて変わるものじゃない。なんでもはっきりと白黒をつけて、それを言葉にしなければ気がすまない私は、あのとき裕一にもそれを強い、自分の気持ちにまで白黒をつけようとした。
裕一が夢を捨てられないことなんか分かってたし、捨てて欲しくもなかった。それでも無理に結論を急いだのは、夢や幸せに満ちあふれていたはずの未来が、しだいに色褪せていくのが怖かったからだ。
いつのまにか、響は、私のすぐ隣に寄り添ってくれていた。
やがて、少しずつ興奮が収まってくると、私は彼に話し始めた。
私には恋人がいて、その彼はフォトアーティストの夢を捨てきれずにいること。
そんな彼との未来に不安を抱いた私は、無理矢理、彼との関係を切り捨てようとしたこと。
代わりに新しくつきあった人は、経済的に申し分のない人で、今夜もう少しでプロポーズしてもらえそうだったこと。
しかし、直前になって、私は、身勝手な嘘で彼の気持ちを踏みにじり、逃げ帰ってきたこと。
内容はたびたび前後し、脈絡のない話し方だったけれど、響は辛抱強く聞いてくれた。
そして話し終えると、
「落ち着いた?」
穏やかな声で、響は言った。
「ごめんなさい、なんか、取り乱しちゃって」
こんなふうに誰かの前で泣いたのなんて初めてだった。むかしから泣かない子だったし、自分でもそう思っていた。
「泣くとスッキリするよね」
「うん、この辺が、軽くなったみたい」
胸の辺りを押さえてみせる。
「泣いているときは、余計なことを考えないからね。難しく考えすぎて、心が苦しいことってあるよね。そんなときは、頭を空っぽにしたほうがいいんじゃないかな。なにが正しいのか、決められないことだってあるし、自分に素直になることも大切だと思うよ」
うなずくと、響は照れた表情を浮かべた。
「なんか、抽象的で、アドバイスになってないな」
「ううん、そんなことない。峠野君の言うとおりだと思う」
「ならいいけど。ただ、アドバイスなんかなくても、もう結論は出てるのかもね」
響の言葉に、ふたたび深くうなずいた。
私が落ち着いたことがわかると、響はソファを立ち上がった。
すぐ横にある大きなベッド、そのマットいっぱいに広げられた羽布団に向かって、
「ダイブッ!」
体を投げる。
バフッと大きな音がして、羽布団の中に体が沈んだ。
「あはっ、ふわふわだ」
はしゃいでみせる響を、私はソファから眺めていた。
「ねぇ」と声をかけた。「峠野君って、本当につき合ってる人はいないの?」
「いなぁい」
羽布団の上を左右に転がりながら、響が答える。
「じゃあ、好きな人は?それもいないの?」
すると彼は、転がるのをやめた。
「昔いた、でもやめた」
じっと天井を見てる。
「やめたって?別れたってこと?」
「好きなことを、やめたんだ」
ベッドの上で半身を起こして、響は私を見た。
その目を見た瞬間、私はそれ以上なにも聞けなくなった。きっと、彼もまた、心に閉じこめたものがあるのだと感じたからだった。
「残念だな。峠野君がどんな人を好きになるのか、興味あったんだけど」
言いながら、ソファを立ち上がった。
ベッドの脇に立つと、響は、ふたたびゴロゴロと転がって遊んでる。
「シャワー浴びていい?」
問いかけると、響は転がるのをやめた。
「いいけど……」
不思議そうに見あげてる。
「さっき、頭を空っぽにして、自分に素直になるのが大切だって言ったでしょ?」
彼はうなずいた。
「峠野君さえよければ、手伝って欲しいの。頭を、空っぽにするのを」
響は、一瞬きょとんとした顔をした。
けれど、すぐに、
「ぜひ」
と、嬉しそうな顔をした。
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