第二章

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 約束の土曜日は、雲一つなく晴れ渡った絶好のドライブ日和だった。  家の近くのファミレスでピックアップしてもらい、あとは真っ直ぐに海へと向かう。  行き先はメールのやりとりで決めてあった。  海が見たいと言ったのはあたし。  夏はまだ少し先だけど、車のデートなら何を差し置いても海と決まってる。  車は濃紺のレクサスだった。  街並みを抜け、高速に向けて車は滑るように走っていく。  車には詳しくないあたしでも、レクサスがトヨタの高級車ブランドだってことくらい知ってる。包み込むようなスェードのシートに身を預けながら、あたしはハンドルを握る響を見た。 「素敵な車ね」 「うん、親父のだけどね」 「乗ってきてよかったの?」 「だいじょうぶ。親父、いまこっちにいないんだ。いない間は、たまにエンジンを回しておいてくれって言われてるし」  響ってお坊ちゃまクンなのかもと思った。たしかに人形のように整った顔立ちは、ぜんぜん庶民っぽくない。 「お父様、外交官とか?」  聞いてみた。  すると、響は可笑しそうに笑った。 「ぜんぜん違うよ。ありふれた会社員。こっちにいないってのは転勤でいないだけで、海外とか行ってるわけじゃないから」 「そうなんだ」 「がっかりした?」  響はハンドルを握りながらチラリとこちらを見た。 「べつに…」  首を竦める。  ま、そんなものよねと思っていた。外交官の息子がうちの会社で営業やってるなんて、どう考えてもピンと来ない。それなりに大きな会社ではあるけど、そういうお坊ちゃまは、大銀行とか、総合商社とか、そんなところの本社あたりで働いてる気がする。  とはいえ、こんな車に乗っているのだから、それなりに裕福な家庭であることは間違いはないとは思うけど。  響が父親の赴任先だと教えてくれたのは、日本の大都市の中でも一番西に位置する地方都市だった。あたしも旅行でなら何度か行ったことがある。 「なら、お父様、単身赴任されてるのね」  あたしが言うと、響は首を振った。 「ううん、お袋も一緒。親父は兎と一緒なんだ」 「兎と?」 「そ、寂しいと死んじゃうんだってさ」 「なにそれ?」  クスクスと笑った。 「お袋は嫌がったんだけど、どうしても一緒がいいって聞かなかったらしいんだよね。寂しくて死ぬかどうかは知らないけど、一人じゃ生きていけないのは確かかも。あの人、家じゃ何もできないし」 「楽しそうなお父様ね」 「子供なんだよ」  響に言われるくらいだからそうかもしれないと思った。  ラブホテルでの行いを見ていると、彼も五十歩百歩だ。  家じゃ何もできないという父親と響は、きっと似てるのだろう。響もきっと、寂しいと死んじゃうのかも。 「じゃあ、響はいま一人でお留守番なの?」 「うん、雅も家を出ちゃったし。今は独りだよ」 「雅、さん?」 「あ、うん、姉さんだよ。一人暮らしするって、親父たちがいなくなったら出てっちゃった」 「そう」と相づちをうった。  なんとなくわかる気がする。あたしだって、弟の晃正と二人で暮らせと言われたら部屋を飛び出したくなる。 「今度遊びに来てよ」と言われたので、 「お邪魔しようかな」と答えた。 「お泊まりもOKだから」と言われたけど、 「考えておくわ」と首をすくめた。  やがて車が高速に近づくころ、響は運転しながらチラリと後部座席を見た。 「そこのバッグにCDが入ってるんだ。取ってもらっていい?」 「これ?」  手を伸ばし、引き寄せたバッグの中からCDを取り出した。 「そう、好きなの掛けてよ」  言われて手にしたCDを見る。  ポルノとミスチル、そして大塚愛、あとオムニバスが一枚ずつあった。 「カエラちゃんじゃないのね」  一枚ずつ眺めながら言うと、響は照れ臭そうに笑った。 「奈緒が大塚愛が好きだって言ってたから」  憶えてたんだと思うと、なんか嬉しくなった。 「落ち込んだときとか、大塚愛ちゃんを聴くと元気がでるのよね」 「うん、わかる」 「じゃあ、これにしようかな」  愛ちゃんのCDを取りだしカーステに入れようとすると、そこにはすでにセットされているCDがあった。 「それ、親父んだ。ごめん、ここのボックスのケースに入れておいて」  小さく頷き、カーステからCDを取り出す。CDにはBrahms Symphonyの文字が印字されている。  言われたとおり、コンソールボックスから同名のCDケースを取り出そうとすると、一枚のカードが転がり落ちた。  摘み上げるとプラスチック製の会員カードだ。峠野乃亜と署名がされている。 「乃亜って素敵な名前ね。お母様?」  尋ねると、 「ううん、親父」  事もなげに響は答えた。 「え?」  乃亜といえば女の子の名前。それもかなり今風の名前だ。 「ノアって欧米じゃ男の名前なんだ。ノアの箱船っていうだろ?」 「それは、知ってるけど」 「日本だと女の子の名前だし、髭面の親父が乃亜っていうと驚かれるらしいけど、そう説明すると納得して貰えるみたいだよ。なにしろ半分向こうの人だしね」 「半分って?」  首を傾げ、運転席の響を見た。 「あ、言わなかったっけ?ハーフなんだ、親父」 「えーっ!?」  あたしは大きな声を出した。  父親がハーフということは、響は当然クオーターということになる。  そんなの、聞いてない!  その後、興奮して問い詰めたところ、響のお祖母さんの結婚相手(つまりお祖父さんなんだけど)は北欧スェーデンの人らしい。車のメーカーに勤め、技術者として来日したお祖父さんとお祖母さんが結ばれ授かったのが乃亜さん、つまり響のお父さんだ。お祖父さんが帰国することになったとき、一度は共に海を渡ったお祖母さんだったけど、どうしても異国の地に馴染めずに乃亜さんと共に日本に戻ったのだそうだ。  それを聞いて、全てが納得できる気がした。  整いすぎるくらい整った響の容姿。くっきりと大きな瞳や、白く滑らかな肌。ふわりと艶やかな髪なんかずっと染めてると思ってたのに、確かめてみたら全くの地毛なんだそうだ。  それもこれも、響の中にお伽噺の王子様の国、北欧の血が流れてるとするなら素直に頷くことができる。  興奮したままのあたしを乗せ、車は高速を走り、海沿いの道路に出た。  響を質問攻めにしていたせいで、海までの時間はあっと言う間だった。  おかげで彼のことをいろいろ知ることができたのだけど、逆にあたし自身についてはほとんど話す余裕がなかった。そのうえ、運転している脇からつぎつぎと繰り出される質問に、響はちょっとお疲れみたい。あたしは、テンションを上げすぎた自分を少し反省していた。  海沿いのパーキングに車を止めると、手摺りの前に立ち、二人並んで海を見た。  思っていったより風があって波も高そう。さすがにまだ泳いでいる人はいないけど、浜辺にはサーフィンを楽しむ人の姿が見える。 「ごめんね」  隣の響を横目で見ながら言った。 「何が?」 「質問ばっかりしちゃって。疲れたでしょ?」 「ううん、へいきだよ。でも、あんなに奈緒が驚くとは思わなかったな」 「当たり前よ。あんな大事なこと黙ってるんだもん」 「そんなに大事かな?会ったこともない祖父ちゃんがどんな人かなんて、今の僕にはどうでもいいことだよ」 「でも今の響がいるのはその人のおかげよ?」 「そりゃそうだけど、でもそれは奈緒だって同じだろ?奈緒の祖父ちゃんは大切な人だけど、それを今話すことって大事なことかな?」  そう言われてしまうと何も言えなかった。 「僕はこんなふうに、黙ってればまだ普通の日本人だけど、親父はいかにもハーフだからね。子供のころはずいぶん虐められたんだって」  言うとおりだと思った。子供のころ乃亜さんを虐めた子も、響がクオーターであることに興奮して舞い上がったあたしも、彼らを特別なものとして見ていることに変わりはない。 「ごめんなさい」  もう一度謝ると、響は驚いた顔でこちらを見た。 「あ、そう言う意味じゃなくてさ。僕が言いたいのは、その、今大事なのは、僕や奈緒自身のことを話すことなんじゃないかなって」  慌てて話す響が可愛くて、あたしは思わずクスリと笑ってしまった。 「うん、私もそう思う。なのに私ったら響に質問ばっかりで、少しも自分のことを話せなかった。だから、ごめんなさいなの」  あたしが言うと、響は嬉しそうに笑った。そして、ふたたび海を見た。 「慌てなくてもいいさ。時間はたくさんあるし」 「それはそうだけど、でも一方的に質問してばかりはフェアじゃないよね。そうだ。じゃあ特別に、今から質問タイムね」 「質問タイム?」 「そう。私のことで知りたいことを響が質問できるの。今なら何でも答えてあげる。ただし三つだけ」 「え?」と響は驚いた顔をした。  三つに限らなくても良かったんだけど、その方が特別な感じがしていいかなと思ったのだ。 「さ、どうぞ?」  すました口調で言うと、響は真面目な顔で考えはじめた。  やがてにっこりと笑った。 「すっごく嬉しいんだけどさ。そんなの、急に言われても思い浮かばないよ。今日一日、猶予をくれない?」 「えーっ、ダメ。今だけ」 「そう言わないでさ。お願い」  甘えた声で言われて、 「じゃあ今日一日だけよ」  そう答えてしまった。  このときはまだ、彼があんな意地悪を企てているとは、思ってもいなかったから。
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