Interlude ー 安藤 奈津美 ー

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 地下鉄を使って、ターミナル駅へ出た。  いったんその駅で降り、乗り換えた私鉄の沿線に私の家がある。快速に乗ってしまえば、20分ほどの距離だ。  普段は混み合う地下鉄のホームも、土曜の夜ということで多少すいた感じがした。背広姿のサラリーマンの代わりに、遊び着に身を包んだ男女の姿が目につく。  私は、改札を抜け、乗り換えの改札があるフロアへと階段を上っていった。すると、立て続けに地下鉄に向かって降りてくる人とすれ違った。どの人もうんざりしたような表情を浮かべている。  悪い予感がした。今夜のようについていない夜には、何が起こっても不思議じゃない。  改札前にたどりつくと、予感は当たっていた。改札の内側には、たくさんの人が幾重にもなって立ち尽くしている。『――線は信号機トラブルが発生したため、現在全線で運行を見合わせております。なお、振替乗車をご希望のお客様は――』おきまりのアナウンスが流れている。  表示の消えた案内板を見あげながら、大きく溜息をついた。  この路線が止まってしまうと、振替乗車をしても家まではかなりの遠回りになる。そのうえ夜遅くともなれば接続が悪く、どれだけ時間がかかるか分からない。  しかたなく改札を入り、人の塊の最後尾についた。へたに他の路線を選ぶより、あきらめて復旧を待つほうが早いだろうと考えたのだ。  ちいさく首を伸ばし、階段の下の方を覗き見る。どうやらホームがいっぱいで溢れた人がここまで達しているらしい。土曜の夜にこのような状態ということは、それなりの時間、電車が止まっていたことを表している。考えようによってはそれだけ復旧も近いのかもしれないが、この調子だと、運転が再開されても、すし詰めの電車に揺られることは覚悟しなければならない。  そんなことを考えていると、ふと、間近に視線を感じた。  顔を上げてそちらを見る。  視線の主は整った顔立ちをした男の子だった。緩やかにウェイブした長めの前髪の下で、くっきりと大きな瞳がじっと私を見ている。  目と目があった。  彼は、迷ったみたいだったが、ちいさく会釈をした。  私も釣られるように会釈を返す。 「参りましたね」  近づきながら、そう話しかけてきた。 「ほんと、ついてない」  首を竦めて答えた。  それが、私と彼、峠野響が交わした初めての会話だった。 ----- 「秘書課の安藤さんですよね?」  聞かれて頷いた。 「僕は」と言いかけた言葉を、 「営業部の峠野君でしょ?」と遮る。  意外そうな表情を浮かべる彼に、クスリと笑った。 「どうして名前を知ってるんだろうって顔ね」 「ええ、まあ、話すのは初めてですから」 「なら、あなたはどうして私の名前を知ってるの?」 「社内の男性の間では有名ですからね。秘書課の安藤奈津美さんと言ったら、知らない人はいませんよ」 「だったらそれはあなたも同じ。女の子の間では有名だもん。今年の新人の峠野響と言ったら、知らないひとはいないよ」  彼の言葉を真似て言った。 「そうなんですかね」  と、まるで人ごとのような口調。否定をしないのは、自分に集まる女子社員の視線を、薄々、というか、むしろいやといいうほど感じているからだろう。  彼の気持ちはよく分かる。絶えず注目されているというのは、いいことばかりではない。気詰まりなことだってたくさんあるのだ。 「噂好きの人が多いから。うちって」  うんざりした顔をしてみせると、 「みたいですね」  響は笑った。  それから暫くのあいだ、私たちは当たり障りのない会話を交わした。  話題は主に通勤の話で、朝に乗る電車とか、どこで乗り換えれば早いとかそういう内容だった。  響は思っていたよりも気さくでよくしゃべる。クールで整った顔立ちのわりにはわがままそうじゃないし、少し惚けていて面白い。さんざんだったホテルの出来事や、あげくに電車のトラブルで溜まったイライラも、彼と話すことで少しだけ和らぐような気持ちがした。  とはいえ、 『――線は信号機トラブルが発生したため、現在全線で運行を――』  構内放送は、あいかわらず決まりきった台詞を繰り返すばかり。諦めた面持ちで別の路線に流れていく人の姿も、少しずつ目につき始めている。  会話が一段落つくと、私は、表示の消えた案内板を見あげた。 「動きそうにないね」 「これだけ長引くってのは、ただの信号機故障というよりシステムトラブルかもなぁ」  響も、つられるように案内板を見あげている。 「あぁあ、ついてない。今夜はもうさんざん」  深い溜息をついた。 「ほかにも、なにかあったんですか?」 「うん、いろいろとね」  案内板から目をはずし、彼を見た。  目と目が合って、ニッコリ微笑みかける。 「これだといつになるか分からないな。ね、飲みに行かない?お姉さんがご馳走してあげる」 -----  響を連れて駅を出ると、繁華街へと向かった。  飲みに行くとは言っても、駅ナカの居酒屋くらいに思っていたのだろう。彼は少し意外そうな顔をしてついてきた。  目についたショットバーへと入る。店内は英国風の落ち着いた雰囲気で、アイリッシュパブといった感じの店だった。  響はギネスを頼んだ。  私はスコッチ・ウィスキー、それもロックでと頼むと、彼は驚いた表情を浮かべた。  その顔を見て、悪戯っぽく微笑んだ。 「少し酔いたいんだもん。だいじょうぶ。お酒は強いの」  高辻とふたりのときは、お酒はあまり飲まないようにしている。酔ったふりはするけど、ほんとうに酔ったことはない。理由はもちろん彼への印象を大切にしていたからだ。  一杯目を飲み終わり、私が同じお酒を頼むころ、響はさかんに時計を気にしはじめた。 「なに見てるの?」  拗ねた顔をして言った。 「いくらなんでも、もう動いてるんじゃないかな」 「そんなに帰りたい?私と飲んでるのに」 「そういう意味じゃないけど」 「だったらどういう意味?」  優しい声で絡むと、響は困った顔をした。  彼が、電車の時間を気にしてくれてるのはわかる。ただそのお行儀のよさが、妙に私を苛立たせた。  私は勝手にギネスのおかわりを頼むと、彼に押しつけた。  テーブルに頬杖をついて、じっと顔を見る。 「なにか話して」 「なにかって?」 「なにかは、なにかよ。なんでもいい。面白いこと」 「面白ことっていってもな……」  私のことをどう扱っていいのか、困っているみたいだ。  いちおう私の名誉のために言っておくと、私がこんなふうに酔っぱらって誰かに絡んだりすることなど滅多にあることではない。ただ今は、こうして響を虐めてみたい気分だった。私に弟はいないけど、もし可愛い弟がいたら、むしゃくしゃしたときなどにはこんな気分になるのかもしれない。 「じゃあ、彼女のことを話して」 「いませんよ、彼女なんか」 「嘘」 「嘘じゃないですよ」 「なら、その都度、調達してるんだ」 「調達ってわけじゃないけど」 「してないの?」  じっと目を見る。 「まぁ、それなりには……」  やっぱり、と思った。  たぶん響は、相手をする子に不自由したりはしてないだろう。こうしていると、この人になら抱かれてもいいと感じる女の子の気持ちが分かる気がする。それはもちろん、社内で噂になるほどのルックスのせいもある。ただ、そればかりではない。こんな場面でも浮き足立たない落ち着いた雰囲気が、女の子の警戒心を薄れさせるのだ。駆け引きとか、艶っぽい感じがしない点もポイントが高い。  そして、そんな気持ちのままに、彼に抱かれてしまう女の子も多いのだろう。むしろ私のように難しく考える子なんて少ないのかもしれない。  私がつき合った男性は、中学校のときにひとり、高校から大学までにひとり、そして裕一と高辻の四人。そのうち男女の関係を持ったのは、あとの三人だけだ。さらに最初の子とは、ただ子供っぽくて拙いだけの行為だったことを思えば、本当の意味で体を通じて心を通い合わせた相手は、裕一ひとりだと言ってもいい。 「で、今夜はどうするの?」  まるで次のお酒を尋ねるみたいに、私は言った。 「どうしましょうか」  少しも動じることのない穏やかな声。 「私は、いいよ」  言ったあと、静かに目を逸らした。  お酒のせいじゃない。今でもそう思ってる。このとき、私にその言葉をいわせたのは、あのホテルから続いているやり場のない苛立ちだった。思うようにならない、自分自身への不満だった。
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