第一章

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 あたし、浅倉(あさくら)奈緒(なお)が、峠野(とうの)(ひびき)と初めて言葉を交わしたのは一年近く前、彼が専務宛の書類を届けにきたときのことだった。 「専務は外出されておりますので、書類はお戻りになりしだいお渡しいたします」  専務付き秘書であるあたしが、完全お仕事モードの口調で受け取ると、彼は圧倒された様子でペコリと頭を下げた。入社後、配属になって日の浅い彼には、社内のお使いとはいっても、専務に書類を届けるなんて緊張する仕事なのだろう。  相手が社内の場合、普段はここまで丁寧な言葉遣いはしない。けれどいまは、彼の強張った表情がおかしくて、つい外向けの顔で書類を受け取ったのだ。 「んもぉ、意地悪なんだからぁ」  響が去ると、後ろで声がした。  田代(たしろ)朱美(あけみ)さん、同じ総務部の五つ上の先輩だ。 「意地悪ですか?」 「そうよん。お渡ししておきますッとか、つんけんした口調で言うからビビってじゃない、あの子」  お高くとまった口調で、あたしの言葉を真似してみせた。 「そんな言い方してないじゃないですか」 「あの子にはそう聞こえたってことよ。そんなことよりさぁ」  すり寄るように体をくっつけてきた。 「彼でしょ?峠野響、噂の三つ星クン」 「ですね」と頷く。 「近くで見ると、また一段と美形よね。おとなしそうに見えるけど、意外としゃべるみたい。人当たりが良くて話も面白いし、かなり遊んでるんじゃないかって」 「まだ配属されたばっかりだっていうのに、よく知ってますね」  呆れた声で言うと、 「噂よ、う・わ・さ」  ニンマリと笑ってる。  もっとも、気のない顔して聞いていたあたしだけど、実際は彼の噂に興味がないわけではなかった。  朱美さんの言うとおり、育ちのよさ感じさせる響の雰囲気は、穏やかで淡泊な草食系の香りがする。三つ星の名に恥じない飛び抜けて整った顔立ちと合わせて、ばっちりタイプなのだ。  とはいっても、あの頃のあたしにはつき合ってる人がいたし、ルックスはタイプでも年下の男性となんて対象外だと思ってた。事態が急転したのは、それから一年近くも経った今日の飲み会だ。  それはあたしの総務部と、響の営業部の若手を集めた合同の飲み会。  総務部の若手はほとんど女性ばかりだし、営業部には若い女性が少ない。合同とはいっても実際は大規模な社内合コンみたいなものだ。  やたら狭苦しい掘り炬燵の居酒屋に、きゅうきゅうに詰められて飲み会は始まった。  低予算はわかるけど、もう少しお洒落な場所はなかったのかなって思う。  この手のお店って、あたしの雰囲気に合わないのよね。  おまけに相手はバリバリの営業部隊。総務部のきれいどころを前にテンションも高くて、開始早々に異様な盛り上がりを見せている。  あたしは、立て続けに浴びせかけられるがさつな会話に辟易しながらも、クールな笑みを浮かべてそれをあしらっていた。  そうこうすると、取っつきづらいと思われたのか、最初はあたしに群がっていた男たちも、しだいに隣で盛り上がる一団に吸収されていく。そして会も半ばを過ぎた頃には、ポツンとひとり取り残された状態になっていた。  だから社内の飲み会なんて嫌いなんだ。  合コンなら合コンらしく、それなりの人数でお洒落なお店を取ればいい。  メンバーも厳選させて、がさつでうるさい男なんていらない。  そんなことを思いながら、酎ハイをちびちびやっているところに、席を移してきたのが響だった。 「浅倉さんって、山岡さんの同期なんですね」  隣に座った響は、挨拶もそこそこにそう話しかけてきた。 「営業三部の山岡君?ええ、彼なら同期だけど?」  それがどうかしたの?という顔をして答えた。  正直に言うと、普段は気の進まない社内の飲み会に今日に限って出席したのは、相手が営業部なら響が来るかもしれないという読みがあったからだ。ただ、なにごとも最初が肝心。お目当ての彼とのやっと巡ってきたツーショットではあっても、いきなり物欲しそうな顔なんか見せられない。 「山岡君、いないね?」 「今夜は接待です。泣いてましたよ。ついてないって。あと、浅倉さんによろしくって」 「あ、そ」  素っ気なく言って、酎ハイに口をつける。  思ったより普通なんだ。響を観察しながらそう思っていた。  見た目から、もっとクールでプライドの高そうな子を想像していた。駆け引きを感じさせる洒落た会話のやりとりとかが得意なイメージだ。  そういう意味ではちょっとガッカリしていた。ただ、まだ話し始めたばかり、実際のところどうなのかはわからない。  それに、社内中の女子が大注目のルックスは、こうして間近で見ると凄みさえ感じられるくらい。素敵だったりもする。 「山岡さんから聞いたんですよ。浅倉さんが新入社員のころのこと」 「私の?」 「うん、秘書課にすっごい美女が配属になったって、社内の男たちの話題の中心だったって」 「なんなのそれ」  クスクスと笑った。  多少の誇張はあってもそれは事実。あの頃は、たいした用事もないのに、あたし見たさに総務部のフロアに顔を出す男性社員が何人もいたらしい。実際、仕事中に、遠目からの視線を感じることもしょっちゅうだった。 「今日、この飲み会に浅倉さんが来るってことで話題になったんです。あの頃の浅倉さんって断トツに綺麗で、モデルだって言っても誰も疑わないくらいだったって」 「やだ、なんでそんなことが話題になるの?」  恥ずかしそうに笑ってみせたものの、内心はムッとしていた。  あの頃のって何?それじゃまるで今は違うみたいじゃない。  確かに社内の男性が浮き足立っていたのは入社して数ヶ月ほどだった。でもそれは周囲があたしの存在に慣れただけのこと。むしろ入社から4年を経た今だからこそ、あの頃にはなかった大人の魅力が、恵まれた容姿をさらに引き立たせている自負がある。 「山岡さん、浅倉さんのファンだったそうです。何度か飲みに誘ったけど、当時はぜんぜん相手にされなかったって。他にも何人か俺もって人がいて、その頃の話で盛り上がったんですよね」  そうだっけ?と思った。  そんなこともあったような気がするけど、いまいち思い出せない。  そんなことより引っかかるのは、相変わらずの過去形の話し方だ。  あたしは、少し意地悪な気持ちになって言った。 「あら、社内のファンならあなたにもたくさんいるんじゃない?ただ、峠野君はマメにお相手してるみたいだけど?いろいろ聞くよ。よりどりみどりって」  彼については、淡泊そうな外見に似合わず手が早いという噂がある。ホントか嘘かは知らないけど、配属されて1年とちょっとにもかかわらず、寝たと噂される女の子の数は両手でも足りないらしい。 「いろいろって、何をですか?」  響は露骨に眉をひそめた。  ちょっと鎌をかけただけなのに素直に反応するあたり、素直というか単純というか、大人の会話なんか望むべくもない。  ただ、可愛い男の子のこういう表情も、それはそれで嫌いじゃない。 「いろいろは、いろいろ。あなた自信が一番知ってるくせに」 「知りませんよ。みんな勝手なこと言ってるんだから」 「ホント?」 「ホントですよ。だいたい社内の子にそんな簡単に手が出せるわけないでしょ」 「手を出すとか、そんなこと言ってないじゃない」 「言ってます」  ふくれた表情を見ながら、ちょっと楽しくなった。  けっこう構い甲斐のある子なんだと思った。  ただ、そんなあたしの気持ちに響は気づいていたみたい。ふたたび不満そうに眉をひそめると、 「だいたいですね」  勢い込んで話し出そうとした。  しかし次の瞬間、言葉が止まった。  あたしの肩越しに別のテーブルを見て、驚いた顔をしてる。  振り向いて視線の先を見た。  そこにいたのは人事課の桜井さんだった。響に熱い視線を送っていたらしく、あたしと目が合うと慌てて顔を逸らした。  その表情を見てピンとくるものがあった。 「人事の桜井さんね」  視線を戻して言った。 「そうなんですか」 「知らないの?彼女、採用担当だったはずだけど」 「知ってますけど」  急に口数が少なくなった。それに、受け答えも上の空だ。 「遅れて、ついさっき来たみたい。気づかなかったの?」 「どうしてですか?」 「だって、びっくりしてたみたいだから」 「してませんよ」 「そう見えたけど?」  じっと響の反応を伺いながら言った。 「ひょっとしていろいろあった?彼女とも?」  ちょうどそのときだった、 「ここ、いい?」  別の営業部の男性が、響とは逆の隣に席を移してきた。 「あ、はい」  お邪魔虫の登場に内心は眉間に皺を寄せながらも、役員秘書で鍛えた微笑みで淑やかに応える。  そして、あたしがその男性にビールを注いでもらってる間に、 「じゃ、僕は」  響が席を立った。  もぉっ、いいところだったのに。  席を離れていく背中を見送りながら、あたしは心の中で大きな溜息をついた。  ところが、一度途切れた響との会話は、そのあと別の形で続くことになった。  飲み会がお開きになりビルを出た路上で、彼がそっと近づいてきたのだ。 「話があるんですけど」 「私に?」 「うん、さっき途中になっちゃったじゃないですか。あのこと」  盛り上がった人たちは、どうやら二次会のカラオケに流れそうな雰囲気だ。 「どこかで話せませんか?」  周囲を伺いながらそっと囁いた。  なんだ、と思った。こんな艶っぽいやりとりもできるんじゃない。  こっそり誘い出そうとするわりには落ち着き払った態度には、かなり慣れてる感じがする。 「そうね、カラオケって好きじゃないし」  などと、とりあえず言い訳めいた前置きをしてから「いいよ」と囁き返す。 「じゃあ、一つ向こうの路地にコンビニがあるから、その前で」  それだけを言い残して彼は離れていった。  前後してあたしもこっそり一団を離れ、指定されたコンビニの前へと向かったのだった。
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