第一章

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 コンビニの前で落ち合うと、タクシーに乗せられ、連れて行かれたのはショットバーだった。  カウンターだけの店内にジャズが流れる店。  響は馴染みの客らしく、初老のバーテンと慣れた口調で言葉をかわしていた。  ここまでの展開は悪くない。お店の雰囲気も合格だ。  思いがけず楽しい夜になりそうな予感に、ちょっとドキドキする。  と、思っていたのに、 「さっきの話だけど」  席について早々、ムードも何もない口調で響はそう切り出してきた。 「桜井さんのこと?」 「そう。言っておくけど、誘ってきたのは彼女の方だからね」 「話ってそのことなの?」  驚いた顔で言うと、響はコクリと頷いた。 「だったら、どちらが誘ったかなんて興味ないけど」  ダメだこれ。  あたしは盛大に溜息をついた。  ふたりの前にグラスが届く。  響はビールみたい。あたしのは響が選んでくれたカクテルだった。 「とりあえず、乾杯しよ」  投げやりに言った。  この子にムードを求めるのは無理みたい。  いまは可愛い人形が隣に飾ってあると思うことにした。  軽くグラスを重ね、カクテルに口をつける。  すると、まるでチョコレートケーキみたいな甘さが口いっぱいに拡がる。 「美味し」  ちょっとびっくりした。  見た目もチョコレートドリンクっぽいけど、飲んでみるとまさにそのもの。口当たりがよくて飲みやすく、とっても美味しかった。 「気に入ってくれた?」 「うん、これベースはブランデー?」 「そう。飲みやすいけど、意外と強いから気をつけたほうがいいよ」 「ふぅん」  ちらりと彼を見て鼻を鳴らした。 「なに?」 「こういうのを使って女の子を酔わせるわけね」 「だったら強いとか教えないよ」 「それもそっか」  あはっと笑った。  甘い会話とか駆け引きとか、そんなの無理と諦めれば案外楽しいのかもしれない。  響が語るカクテルの蘊蓄を聞きながら、グラスを口に運ぶ。  このカクテルはアレキサンダーというらしい。『酒とバラの日々』という映画で、お酒の飲めない妻にお酒の味を教えるカクテルときのカクテルなんだそうだ。結局その人はアルコール中毒になってしまうという救われないお話だ。  響は映画やカクテルに詳しくて、いろいろ面白い小ネタを話してくれる。 「じゃあ峠野君のそれは?なにかあるの?」  彼のビールについて聞いてみた。 「これはギネスのハーフ&ハーフ、『新宿鮫』って知ってる?」 「知らない」 「日本のハードボイルドで、直木賞も取った名作だよ。その主人公で鮫って呼ばれる刑事が好きな飲み方なんだ」 「ふぅぅぅぅん」 「なに?」 「ううん、いろいろ詳しいんだなって思って」 「まあね」  なんか自慢げだ。ちょっと可愛い。  こうして彼と話していると、ここがお洒落なバーであることを忘れてしまう。  まるで彼の部屋で雑談をしているみたいな気持ちになって、妙な心地よさがある。 「そういえばさ」  話が一段落したのを見計らって、あたしは言った。 「なに?」 「さっきの話」 「さっきって?」 「桜井さんの。本当に彼女のほうから誘われたの?」  響には興味がないとは言ったものの、実際はちょっと違った。本当に桜井さんの方から誘ってきたとしたら、かなりの驚きだからだ。  桜井さんは、華やかではないものの真面目で大人しくて、女のあたしから見ても可愛い感じのする女の子だ。とりたてて親しくしているわけではないが、同じ部で仕事をしていれば人柄は分かる。簡単に誰かと寝るような子じゃないし、ましてや自分から男の子を誘うなんて思えない。  あたしの問いに、響はニンマリした笑みを浮かべた。 「興味がないとか言って、ホントは聞きたいんだ」  図星を突かれてちょっと焦った。 「興味なんかないけど」と思わず反論した。「もしそうだったとしても、そんなこと男の人は口にすべきじゃないと思ったから言ったの。女のほうから誘ったなんて、言われる桜井さんの気持ちを考えたことある?」 「それはそうだけど、でも遊んで捨てたとか思われたくなかったし」 「そんなこと思ってないよ」 「嘘だよ。社内を手当たり次第にみたいなこと言ったくせに」 「私が言ったんじゃなくて、そういう噂があるってこと」 「知ってる。両手でも全然足りないとかだろ。何言ってんだよ、片手で充分だって」  その言葉に、あたしは思わず隣の彼を見た。 「片手?」  驚いた顔をすると、 「え?あ、うん」  なんか狼狽してる。つい言っちゃったって感じだ。 「片手って言った?」 「まぁ、その、片手だけど…」  響は胸の前で四本の指を折り曲げた。 「多いかな?」  当たり前じゃない。  響が入社して、まだ一年ちょっとしか経っていない。彼はその一年間に、社内の四人の女性と関係を持ったと言うことになる。それはけっして少ない数ではないはず。それをたった四人みたいな言い方をすることに驚いてしまった。 「でも僕から誘ったりしてないよ。そんなことしなくても、相手に困ったりしてないし」  慌てた口調で響は言った。  でも、全然フォローになってない。むしろ自滅の道をまっしぐらだ。  何なのこの子と言う目で彼を見た。  そんなあたしの眼差しに、彼はとても悲しげな瞳をした。  つぶらなという表現がピッタリくる、大きくて黒眼がちの瞳だ。  そんな瞳で見られると、なぜか自分が酷いことをしている気持ちになった。  そして、彼は、呟くように言った。 「僕が誘いたいのは、浅倉さんだけだから」  そのときキュンと胸が鳴るのを感じた。  まるで、無防備な心に、不意打ちを食らわされたような。そんな胸のときめき。 「なに言ってるのよ。今日初めて話したくせに」  思わず上ずった声を出してしまった。 「浅倉さんのことは前から知ってるよ。ずっと見てたんだから。今日の飲み会だって、俺、あなたが来るっていうから参加したんだよ。だから、手当たり次第とか、そんなふうには思われたくないんだ。あなたには」  あまりに突然に、一方的に、駆け引きなんかなにも感じさせない言葉だ。  でも、  こういうのって悪くない。 「聞いていい?」 「なに?」 「それって、ひょっとして口説いてる?」  グラスを見つめる彼を、見つめながら聞いた。 「悪い?」  チラリと上げた瞳に軽く睨まれる。  淡い照明に照らされた長い睫が、頬に影を落としていた。  その瞬間、思った。  あたしは今夜、この子に抱かれるのかも、と
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