第一章

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 そして、あっ!と言う間に週末が終わり、月曜日のオフィス。  慌ただしい週始まりの朝は、定例の役員連絡会で始まる。  とはいえ、忙しいのは資料を用意したり会議の段取りを進める企画部の人たちで、役員秘書のあたしにとっては、いつもと変わらぬ穏やかな朝だ。  とりあえずのお仕事はスケジュール表の提出。お世話をしている専務の先週の実績と今週の予定を纏めて、社に提出用の予定表に記載するのだ。いくつも入っている外出については、合わせて移動と待ち合わせの段取りを確認したりもする。パソコンを使えば早いのだけど、これだけはなぜか今も手書き。セキュリティがどうのこうのと理屈はあるらしいけど、要するに大昔から続く儀式みたいなものなのだ。  いつも通りの慣れた作業。  のはずが、今日に限って少しも進まない。10時までには課長に提出しなければならないスケジュール表が、9時半を過ぎても半分ほどしか埋まっていない。 「どうしたの?いったい」  突然声を掛けられて、あたしはビクッと肩を震わせた。  もうすこしで、持っていたボールペンを落とすところだった。  顔を上げると、声の主は朱美さんだった。 「やだ、もぉ、驚かさないでください」 「驚かしてなんかないわよ。そっちがぼ~っとしてたんじゃない。いったいどうしたのよ。週末になにかあった?」  机に両腕を突いて、顔を覗き込んでくる。  さすがは朱美さん、話したくないときに声を掛けてくるあたりがこの人らしいところだ。 「別に何もありませんよ。週末遊びすぎて、疲れちゃったんですよね」  作り笑顔で誤魔化そうとするあたしを、朱美さんは、ふぅんと鼻を鳴らして眺めている。 「疲れてるとかそんな感じじゃなかったけど?なんかもっとこう、恋する乙女って感じ」  ジト目とはこういうのを言うのだろう。その目には、疑いの気持ちがありありと浮かんでいる。 「乙女なんて、おだてても何も出ませんよ」  笑ってみせたものの、内心はドキッとしていた。  総務部の中でも総務課は、全社の庶務担当の女性と直接繋がっている。日々の庶務事項や問い合わせを通じて、全社各部門との間で頻繁なやりとりを行っているのだ。そしてその総務課の中でも女性のリーダー格が朱美さんだった。張り巡らされたネットワークを伝って、全社のあらゆる噂話が彼女の元に集まってくる。金曜日の営業部との飲み会のあと、響とあたしが続けて姿を消したことについても、どこからどんな話が入っていないとも限らない。 「そうね。浅倉ももうアラサーだし、乙女って歳じゃないか」  朱美さんは、失礼極まりない台詞を吐いて笑っている。  まだ26歳のあたしを捕まえてアラサーはないんじゃないとは思ったけれど、これ以上長引かせたくなかったし、小さく首をすくめただけで受け流そうとした。  しかし、彼女の追求がそんなことで終わるはずもない。  空いた椅子を引っ張ってきて、あたしの横にしっかりと腰を下ろした。 「それはそうとさぁ、金曜の飲み会どうだったの?」  突然そう切り出してきた。  イベント大好きの朱美さんだったけど、先約があって、例の飲み会は泣く泣く断念している。 「どうって、普通の飲み会でしたよ。そこそこ盛り上がりはしましたけど」 「ふぅん、でも来たんでしょ?噂のイケメン君。峠野響、だっけ?」 「ええ、少しだけ話したんですけど慌ただしくて、ほとんど挨拶程度でしたね」 「そ、ま、そんなもんかな。彼、二次会も出なかったし」  金曜の今日でなんでそこまで知ってるのよと、心の中で顔をしかめた。 「ところで浅倉は二次会行ったの?」  絶対なんか知ってる。その言葉を聞いてあたしは確信した。少なくとも、あたしと響が二人してあの場から消えたことは絶対に掴んでるはず。 「私は失礼しました。カラオケ、好きじゃないんですよね」  とぼけて言うと、再びふぅんという表情を浮かべた。 「あら、好きじゃないんだぁ。知らなかったわ。浅倉の十八番の『さくらんぼ』、また聞きたいのにぃ」 「十八番って、あれは朱美さんが無理矢理」 「やっだぁ、無理矢理ってわりにはノリノリだったくせに」  もう勝手にしてよとあたしは思った。  朱美さんと遊ぶのは楽しいんだけど、彼女といると、ときおり自分が薹の立ったお局OLの世界に誘い込まれていくような気がして、憂鬱な気分になる。 「ま、いいわ」  素っ気なく言うと、朱美さんは立ち上がった。さすがに業務時間中にこれ以上の雑談はまずいと思ったのだろう。 「今夜飲みに行くから、開けといて」  去り際にそう告げたのち、 「じゃあね~」と裏返った声を残して自分の机に戻っていった。  とりあえずの追求から解放されたあたしは、超特急で専務のスケジュール表を仕上げにかかった。  記入を終えたそれを手に課長の元へと向かう。  秘書課の課長席はずっと空席で、通常は経営企画部の課長が兼務している。  布施光樹、細面の顔立ちに切れ長の瞳、メタルフレームの眼鏡が冷めた印象を与えるやり手の企画課長、それが今のあたしの上司だ。年齢は35歳、いまだ独身、浮いた噂ひとつ聞こえない氷の男。 「ここ、字が違ってる」  布施課長は受け取った書類に目を通すやいなや、いきなりそう指摘してきた。 「S工業の渡邊社長は旧字体じゃなかったかな」  慌てて肩越しに覗き込むと、確かに「邊」の時が「辺」になっている。 「あ、すみません。急いで直します」  あたしが言うと、「いや、いい」と素っ気なく断られた。 「タイムリミットだ。これは僕が直しておく。次回以降は気をつけるように。いいね?」  時計はもう10時を回ろうとしている。 「はい」と返事をしたあと、深くお辞儀をして彼の席を離れた。  たかが社内のスケジュール表とはいえ、布施課長のチェックの細かさはよく知っている。  これが普段のあたしなら絶対犯さないミスだった。 「しっかりしなきゃ」  席に戻りながらそう自分に言い聞かせた。  注意力が散漫になっているのが自分でもわかる。  しかし、机に戻り、パソコンの画面に向かいながらキーボードを打つふりをして、やはり考えるのは響のことだった。 -----  結局あのあと、あたしは朝まで寝かせて貰えなかった。  ソファの上で1回したあと、さらにベッドで2回抱かれて始発電車で帰ったのだ。  眠かったし、疲れたし、あのままホテルを延長して眠ってしまいたかったけど、人目の多い時間帯にシワだらけのスーツで帰るのはいやだったことと、なにより一眠りして元気が戻ったら、そのままもう一晩なんてことにならないとも限らないと思ったからだ。  それくらい、あたしは彼にメロメロだった。 「ちょ…っ、もぉダメよ、これ以上したら痛いわ。ゃ、ダメだって……」  後半戦のベッドの2回目、つまりその夜4回目の行為を響が仕掛けようとしたとき、あたしは懸命に抵抗した。 「だいじょうぶだよ。痛くしない。優しくするから」  あたしを抱きしめながら、彼は耳元にそう囁いた。 「ぁ……、だめ……ぁ、ぁんん……」  そしてその言葉は嘘じゃなかった。  まるでこの体を知り尽くしたような巧みな愛撫で、彼はあたしの体に火を灯し、それを煽り立てた。 「ぁん、も……だめ……、ぁ、ぁあ……またッ、ぁ、ぃくッ……」  ただ嘘じゃないのは痛くしないってことだけ、優しくするどころか、前にも増して激しく攻め立てられたのだけど。  おかげで朝ホテルを出るときには、あたしは腰砕けの状態だった。  危うく路上にしゃがみ込みそうになるあたしを見て、響は家まで送ると言ってくれた。最初は断ったものの、彼の心配そうな眼差しに押し切られ、結局送ってもらうことになった。  地下鉄から私鉄に乗り換えれば、あとは自宅の最寄り駅まで一本。朝の澄んだ日差しの中、二人並んで電車の揺れに身を任せた。 「少し寝ていいよ。降りる駅さえ教えてくれれば、起こしてあげるから」  そう言ってくれたはずなのに、先に眠ってしまったのは響の方だった。  響だって疲れてないはずない。忙しそうな営業部で一週間働いたあと、金曜の夜に飲みに行って、そしてそのまま夜通しホテルで4回も、だもん。若いと言えばそれまでだけど、淡泊そうな顔をしてとんだ肉食男子だ。  響はあたしの肩にもたれ、小さな寝息を立てていた。  この子はどこに住んでるのだろう。  寝顔を眺めながら、彼の家の方向を聞いてなかったことに気がついた。  乗り換えに慣れていない様子を見れば、同じ沿線ではなさそうだ。とするなら、あたしを送ることでかなりの遠回りになるのかもしれない。  そう思うと、送ってもらったことが、なんだかとても悪いことをしたように思える。  あたしの部屋で寝させてあげようか。  どうせ一人暮らし。このまま昼過ぎまで寝て夕方帰るのなら、それも悪くないような気がする。でも一方で、いきなり彼を部屋に上げたりするのは、さすがにやりすぎのような気もした。二人がこれからどういう関係になっていくのかはまだ分からない。あまりに無防備に彼に気持ちを許すのは怖い。  やがて下りる駅が近づき、社内にアナウンスが流れた。  あいかわらず響はあたしの肩で熟睡している。 「ね、響……」  名前を呼んでみた。 「着くよ。ねぇ、響」  初めて呼んだ彼の名前。  ん、なんか悪くない、かも。  朦朧とした響を連れてホームに下りる。  まだ人気の少ない土曜の朝のホームで、彼は豪快に欠伸をした。 「"ひびき"が"いびき"かいてた」  クスリと笑いながら言うと、半分眠った目をして響も笑った。  ホームから階段を使って改札に向かう。  眠そうには見えても、足取りはしっかりしていた。  これなら大丈夫そうと判断すると、改札の前で立ち止まり振り向いた。 「ありがとう。ここでいい」 「えっ?」と響は眠そうな目を瞬かせた。 「歩いてすぐだし、腰ももう平気だから」  そう告げると、彼の表情が寂しそうに見えて胸が痛んだ。まさかここでサヨナラなどと、思っていなかったのだろう。 「分かった」  しかし、響はそれだけ言って、穏やかな笑みを浮かべた。引き込まれそうなほど柔らかな笑顔。灯りを落としたお洒落なバーもいいけど、響には澄んだ朝の光が似合ってる。  とそのとき、彼はくるりと周囲を見渡した。  周りに視線が無いのを確かめる。  そして小さく首を傾げて近づき、素早く口づけてきた。  ほんの一瞬、唇を押し当てるだけのキスに、あたしは瞳を閉じることすらままならなかった。 「歩いてすぐでも気をつけて帰ってよね」 「うん、響も、電車乗り過ごさないでね」  あたしが言うと、響はとても嬉しそうな表情を浮かべた。そして、なぜかとっても切ない気持ちになった。  そのあとの響は、二度も乗り換えを寝過ごし、家に戻ったのは昼頃だったらしい。  その日の午後に送られてきたメールに書いてあった。  そして同じメールに次のデートの誘いも。  次の土曜日、ドライブに行かないかという内容だった。  その日にはもう予定が入ってはいたけど、それは友だちと交わしたショッピングの約束。適齢期の女の子は友情より愛情という歌もある。あたしは二つ返事でOKのメールを送信したのだった。
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