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一日の仕事が終わり、その日のアフターファイブ。
朱美さんと待ち合わせたのは、イタリアンをベースにした多国籍料理の店。彼女お勧めのダイニングバーだった。
淡く灯りを落とした店内は、ライトアップされた植栽とエスニックな雰囲気のオブジェを配し、スロー&ミディアムのラテンジャズが流れるお洒落なお店。
「で?行っちゃったわけね。ホテル」
一通りあたしの話を聞き終えると、ワイングラスを揺らしながら朱美さんが言った。
あたしは小さく頷いた。
「ちゃっかりイケメン君をお持ち帰りかぁ、隅に置けないわね。浅倉も」
やれやれといった口調でグラスを傾ける。
「もぉっ、なんでそうなるんですか」
あたしは唇を尖らせた。
「相手は三つも年下、それも社内の女の子注目のイケメン君よ。冷静に見ればそうなるじゃない」
「今説明したじゃないですか、口説かれたんです」
焦れた口調で言うと、「はいはい」と朱美さんはあいづちを打った。
オニオンリングを指で摘み、口の中へと放り込む。
「聞いてたわよ。"僕が誘いたいのは貴女だけなんだ"って?なんかちょっとクサイ台詞よねぇ」
「それは、そうかもしれないけど」
「けどなによ?」
「でも、彼が言うとそう聞こえないんですよね」
両手でグラスを持ったままあの夜の言葉を思い出すあたしに、
「はあ、そうなんだ」
朱美さんは間延びした声で答えた。
「ま、浅倉の好きそうなタイプだとは思ってたんだ。で、どうだったの?」
「どうって?」
「決まってんじゃない。行ったんでしょ?ホ・テ・ル!」
はっきりと一音一音区切って言った。
思いがけない大きな声に、あたしは慌てて周囲を見回した。
すぐ隣の席には、あたしより少し年上風のカップルが座っている。どこかぎこちない雰囲気で会話を続けているところを見ると、初デートとかかもしれない。こちらの会話など聞こえていない様子だけど、内心では眉を顰めているに違いない。
「もぉっ、大きな声出さないでください!」
小声でたしなめたけれど、周囲のことなど気にする気配もない。
「けっこう我が侭そうだし、自分勝手な感じにしそうよね?」
「彼が、ですか?」
「そ、彼のセックス」
明け透けな言い方に、あたしは眉をひそめた。
一方、目の前の朱美さんは、そんなこともお構いなしにカルパッチョのタコをフォークで突っついてる。小さな切り株のような形に切られたタコ足は、滑って上手く突き刺せないらしい。
「どうしてそう思うんですか?」
逆に聞いてみた。
「別に理由はないけど、外見のイメージかな」
どうでもよさそうな口調で言いながら、首尾よく突き刺したタコを嬉しそうに口に運んだ。
きれいに赤みを抑えたヌーディな口元が、フォークのタコを咥える。その様子を見るともなしに眺めながら、あたしはもう一度あの夜の響を思い出していた。
確かに響のセックスはマイペースだ。我が侭といってもいいかもしれない。でも、自分勝手というのとは違う。あたしが知ってるどの男性よりも、相手の女性のことを考えている気がする。
「それが、そうでもないですよね……」
呟くように言った。
すると、朱美さんの口元でフォークが止まった。
タコを噛むのを止め、上目遣いにじっとあたしを見てる。
探るような視線を感じながら、あたしは心の中で、「言っちゃおうかな」と思っていた。
昼間、朱美さんに飲みに誘われたとき、すでにある程度は響とのことを話そうと思っていた。
このまま彼とつき合い出せば、すぐに彼女の知るところになるはずだし、そうなればどうせ金曜の夜に遡って根掘り葉掘り聞かれることになるのだ。そうじゃなくても、週末を挟んで、月曜の朝にはもう朱美さんに情報が入っていた。ということは、どこかに密告者がいる可能性は高い。さらにあたしの推理が正しければ、その人はあたしに好まざる感情を抱いている。おかしな噂が流れないうちに、早めに手を打っておいたほうがいい。とりあえず朱美さんをこちら側に引き込んでおく必要があると思ったわけだ。
そしてもうひとつ、これが一番大切なことなんだけど、あたしは朱美さんに嘘をつきたくなかった。
わがままで、知りたがりで、飲むとほとんどオヤジノリの朱美さんだけど、一方で、さっぱりとして裏表がなく、姉御肌で面倒見がよかったりもする。いいように振り回されたりもするけれど、一緒にいると楽しいし、なにより飾らない安心感がある。弟しかいないあたしにとって、入社以来ずっと朱美さんは、姉のような存在なのだ。
それに、噂話大好きの朱美さんではあるけれど、彼女はけっして『お喋り』ではない。噂話にしていいことと悪いことの見極めは、しっかりできる人なのだ。
そうでなければ、たとえ全社の庶務の子たちと緊密にやりとりできる立場にいても、社内中の噂話が彼女に集まってくるようなことはない。おそらく朱美さんの持つ信頼感と不思議な包容力が、自然と噂話を引き寄せるのだろう。
だから、もしも彼女に響とのことを話したとしても、朱美さんならだいじょうぶ。あたしはそう思っていた。
ただ、嘘はつきたくないとは言っても、さすがにあの夜のことを洗いざらい話すつもりはない。誘われてホテルに行ってしまったことくらいは話したにしても、そこから先はさらにプライベートなこと。嘘をつくとかつかないとか、そういうのとは次元が違う。
朱美さんだってそんなことは分かってるだろうし、あれやこれや聞かれたとしても、適当にはぐらかして煙に巻けばすむだけのこと。
ところが、いざ朱美さんを相手にあの夜をたどり始めると、あたしはもっと彼のことを話したくてしかたなくなっていた。
飲み会での響との会話からショットバーのやりとりまで、二人の間に起こった出来事を順を追って言葉にすると、それは急に現実感を失い、まるであの夜のことが夢の出来事のように思えてくる。
冷めた目で見れば、飲み会で誘われて、お持ち帰りされて、ラブホテルで一夜を過ごした、ただそれだけのこと。バーで女性を誘うのに思わせぶりな台詞を吐くのは当たり前だし、ホテルの部屋で言われた甘い言葉を信じるほうがどうかしてる。そう思えないこともない。
でも実際は違う。
朱美さんには、それをわかって欲しかった。
「たしかに強引なところはあるんだけど、自分勝手とかじゃないんですよね」
あたしが言うと、「ふぅん」と朱美さんは頷いた。
「やさしい感じじゃないんだけど、やさしくないわけじゃないし」
「上手いんだ、彼」
言われて、「えっ?」と見返した。
「つまりそう言うことでしょ?」
「そう、かな?でも、相性とかもあるし…」
「なら、相性がぴったりだったってこと?」
「どうなのかな。でも…、そうかも」
言われて認めるのは恥ずかしいけど、冷静に考えればそれは当たってると思う。少なくとも今まで抱かれた男の誰よりも、感じてしまったことは確かなのだから。
その後、朱美さんの相づちに促されて、あたしはそのあとの出来事を話し始めた。
細かな行為については触れなかったものの、ソファの上で響と交わした会話や、翌朝彼に送って貰ったこと。帰りの電車の中で響が寝てしまったことや、別れ際のキス。そして次の週末、ドライブに誘われたこと。後になって思い返せば、よくまあと思うほど、彼との洗いざらいを話してしまった。
「それにしてもまぁ、そこまで送ってもらっておいて、よく駅で追い返せたよね」
黙って一通り話を聞いたあと、朱美さんは言った。
「だって、いくらなんでも、そのまま部屋には連れて帰れないじゃないですか」
「相手はそのつもりだったんじゃない?だいたい、追い返すくらいなら送ってもらわなきゃいいじゃない」
「それは、私がふらふらしてて危ないからって……。最初は断ったんだけど」
「ふらふらって?」
「ちょっと、腰が……」
言いにくそうに口ごもると、
「はぁ?」と朱美さんは素っ頓狂な声を上げた。「腰が立たないって、あんたいったい一晩に何回シタのよ?」
「ちょっとッ、朱美さん!」
あたしも負けずに大きな声をだした。
心なしか隣の席のカップルが固まっているような気がする。さすがの朱美さんもまずいと思ったのか、チラリと隣を見て小さく咳払いをした。
「立たないとかじゃなくて、ちょっとふらっとしただけですッ」
あえて隣の二人にも聞こえる声で言った。
しかしそれで逃れられるほど、朱美さんの追求は甘くない。
「んなのどうでもいいわよ。ちゃんと質問に答えなさい。何回シタの?」
ひそひそ声で問い詰められ、しかたなく「4回くらい」と答えた。
「一晩に4回か、ヤルわね」
盛んに感心している。
「お姉さまに搾り取られたとはいえ、若いだけあるわ」
無言で睨むと、「冗談よ」と朱美さんは笑った。
「そんなことより、朱美さんはどう思います?」
すかさず話題を変えた。
これ以上、この手の話は続けたくなかったし、なにより朱美さんが響をどう思っているのかが知りたかった。彼女が響の気持ちについてどう思うかが。
「どうって何が?」
「彼の気持ちです。わからないんですよね。彼がどういうつもりなのか」
「当事者の浅倉にわからないものが、あたしに分かるわけないじゃない」
なんか素っ気ない。あたしは不満な顔で彼女を見た。
「第三者だから分かることだってあるじゃないですか」
「そりゃそうだけど、浅倉の話は浅倉のフィルターがかかってるんだから、それを聞いて第三者としての判断は難しいでしょうが」
「そうかもしれないけど」
そう言われてしまうと身も蓋もない。
「浅倉は何が不安なの?それを言ってみなさいよ。あたしの意見でよければ言ったげるわ」
「べつに不安ってわけじゃ」
「彼の気持ちがわからないんでしょ?だから不安なんじゃない。どうしてわからないの?理由はなんなのよ」
「それは」
あたしは、あらためて自分の心にわだかまるモヤモヤについて考えてみた。
「彼、以前からあたしに憧れていたって言ったんですよね」
少し間を置いて言うと、ふむふむとばかりに朱美さんは頷いた。
「それが会って早々、『入社してから4人』ですよ。おまけにそれは多いってほどじゃないって感じだし、相手に困ってないとか。普通、憧れてる相手にそんなこと言います?そうじゃなくても手が早いって噂があるのに、思わせぶりなことを言われてもすぐには信じられませんよね?」
「そうね」
イカ墨のパスタに手を伸ばしながら、朱美さんは頷いた。
「そのうえ妙にマイペースで、女の子に気配りがないっていうか、がさつなところがあったりするし」
「だったら信じなきゃいいのにね」
朱美さんは、パスタを絡めるフォークを止めて、上目づかいにあたしを見た。
そして言った。
「でも信じたい。あんなイケメンの彼がそんな不誠実な嘘をつくわけないから。ちがう?」
「そんな、見た目だけで判断してるわけじゃ……」
言いかけると、彼女はそれを遮るように続けた。
「見た目だって大切よ。外見から中身が透けて見えることだって多いもん。ま、ルックスがいいってだけで、あとはなにも見えなくなるような子は別だけど。そんなことないわよねぇ、浅倉は」
あたしは小さく頷いた。
内心は、ちょっとドキッとしてはいたけど。
「彼については、たぶん二つあって、そのどちらかだと思うわ」
「二つ?」
「そ、まず一つは確信犯ね。気が強くてヤリごろのお姉さまを落とすのには、相手の気を引くような、意外性のある会話って大切よね。ちょっと持ち上げておいて肩すかしを食らわせて、うまくプライドを刺激するのよ。誘い出して二人っきりになれたらしめたものね。あとは掌を返したように甘い台詞でたたみかけてお持ち帰り~」
一丁上がりとばかりの口調でいうと、小皿に乗せたパスタを頬張る。
「そういう見方をすると、若いのにかなりしたたかよね。ま、お互い子供じゃないんだから、駆け引きともいえないことないんだけど。本気になった方が負けって……」
「もう一つはなんなんですか?」
パスタを頬張りながら話す彼女を途中で遮って、聞いた。
不機嫌そうに響いた声にチラリとこちらを見たあと、朱美さんはゆっくりとパスタを飲み込み、ワインに口をつけた。
「もう一つは天然ね」
「天然?」
「そ、あんまり考えてないんじゃない?憧れのお姉さまと話ができて、はしゃいで、言わなくてもいいことを口にしたって感じかな。ま、結果的にそれがうまくいったんだろうけど」
「で、朱美さんはどっちだと思うんですか?」
じっと見据えながら言うと、朱美さんはおっきく溜息をついた。
「もお、そんな顔しないでよ。ちょっとからかっただけじゃない。たぶん後の方よ。あたしはそう思ってる」
「どうしてそう思うんですか?」
さらに聞くと、
「浅倉がそう思ってるからよ」
不意に真面目な声で朱美さんは言った。
「私が?」
「そうよ。だから好きになったんでしょ?さっき言ったじゃない。あなたはルックスがいいだけで何も見えなくなるような子供じゃないって。そう思ってるからに決まってんじゃない」
「べつに好きになったとかそういうんじゃ」
「もう勘弁してよ」朱美さんはうんざりした口調で言った。「飲みながら惚気話を聞くのって疲れるんだから」
「惚気てなんかないじゃないですか」
「浅倉がどういうつもりで話してるか知らないけど、こういうのを惚気てるっていうのよ」
空になった自分のグラスにボトルからワインを注いでいる。注ぎ終わると、なおも納得いかない顔をしているあたしを見た。
「浅倉ってさ、男性経験は豊富なくせに、恋愛経験は希薄なのよね」
「どういう意味ですか?」
あたしは唇を尖らせて睨んだ。
朱美さんは、「言葉通りの意味よ」とか言いながらワインを飲んでる。
聞きようによっては、とてつもなく失礼な言葉。でも、その裏側にはとても深い意味があるような気がして、あたしはそれ以上何もいえなかった。
「それにしても年下かぁ、意外なところ突くわよね」
突然、重苦しくなった空気を払いのけるように、朱美さんが言った。
「あたしだって、年下はダメだと思ってたんですよね」
「そうよね。浅倉って、美少年フェチのくせに年上嗜好だし」
あいかわらず、すごい言われ方だ。
「たしかに、年上嗜好ですけど…」
いちいち相手にしていたら身が持たないし、そこだけ肯定しておいた。
あたしが年上嗜好なのには理由がある。二つ下の弟、晃正の存在だ。
あたしが小学校を卒業するまではしもべのようにあたしに付き従ってた晃正も、中学に入ってから急に生意気になり、以降は顔を会わすたびに口喧嘩が絶えない。自分より年下の男性というだけでアイツの顔が浮かび、相手が誰であっても恋愛対象になどなりえないと思っていたのだ。
「でしょ?前のカレシなんて一回り上だったんじゃなかったけ?」
「それ、前の前のカレ、なんですけど…」
「え?やっだ~ん、たくさんいるんで間違えちゃったわ」
「わざと言ってます?」
頬を膨らませると、
「何のことかしら?」
惚けた表情を浮かべてる。
「ま、いいじゃない。昔は昔よ。浅倉の新しい恋に乾杯しよ。ほらぁ……」
朱美さんはそう言いながら、あたしのグラスにワインを注ぎ足した。
掲げたグラスを軽く重ね合わす。
ルビー色のワインが照明の明かりを受けて煌びやかに揺れた。
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