絵を描くタヌキ

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 険しい山の奥に一軒の小屋がありました。まぶしい夕焼けが屋根を朱色に染め上げています。昼の動物達が穴倉へ帰り、夜に動く動物達が目を覚ます頃合です。山小屋に一人の若者がやってきました。  トントンと若者は優しく扉を叩きます。中に人は居るのだろうか、今晩はどうやって過ごそうか、若者は疲れた体で考えました。  扉が開きます。小屋の中から老人が顔を出しました。 「なんと珍しい客があったもんだ。疲れているだろう。上がりなさい、食事を用意しよう」  若者は暖かく迎えられました。老人は熱いスープと干し肉をテーブルに用意しました。若者はイスに座り老人に感謝しました。若者が食事をしている間、老人は一言も話さず一人蜂蜜酒を飲んでいました。若者は食べるのに夢中で老人のことを気にする様子もありません。若者が食事を終えると、老人は満足げに笑いました。 「ところで、お若い人よ。なぜこんな山奥へ来たのだい?」  若者は少し戸惑いましたが、真実を語ることにしました。 「おじいさん、お食事ありがとうございました。私がここへ来たのは宝探しをするためです。この山の中に宝があると私は知っているのです。それを探しに来ました」  老人は笑みを浮かべたまま若者に話しかけます。 「もし、ここに私が居なかったら君は今夜どうやって過ごすつもりだったんだい? 山の夜は危険だ。もう少し自分を大切にしなさい」  若者は困ったような恥ずかしいような顔をして老人に言いました。 「今日はありがとうございます。できれば今晩ここに泊めていただけますか」 「構わないよ。山の夜は危険なんだ。若い人を放って置くなんて私にはできないよ」  若者は老人に感謝しました。老人が若者に蜂蜜酒を勧めます。二人は話を始めました。 「ところで、おじいさんは何故こんな山奥に住んでいるのですか」 「うーん、簡単に言えば、それは私がタヌキだからだよ」  若者にはこの言葉の意味がよく分かりませんでした。老人はどう見ても人間だったからです。 「あなたはどう見たって人間じゃあないですか。いったいタヌキなんて、何の冗談ですか」 「まぁ、嘘でも本当でもないんだ。それより宝探しにきたそうだが、ひょっとして目当ての宝は金貨かね」  若者は驚きました。そして、ひょっとするとこの老人が宝をすっかり取りつくしてるんじゃないかと不安になりました。 「どうして知っているのですか。ひょっとしてもう宝は無いとでも言うのですか」  あわてる若者に老人は優しく声を掛けます。 「そう、あわてることもないだろう。ところで君は宝物を見つけてどうするつもりだったんだい」 「それは聞かなければいけないことですか。宝を探す人はみんなそんなに違わない目的でやっていると思います」  老人は若者の言葉について考えている様子でしたがが、ついに何も言いませんでした。沈黙に耐えかねて若者が喋りました。 「いま街では仕事が無いんです。お金を欲しがるのがそんなに不思議ですか。お金があれば商売ができます。なければできません」 「そうなのか。でもまったく仕事がないなんてこともないんじゃないか」 「そうですが、それでは僕は幸せになれないのです」  老人は蜂蜜酒を飲みました。それに合わせて若者も飲みました。老人が話を始めます。 「宝を見つけてそれがお金に変わったとして、それは本当の宝と言えるのだろうか。私はそうは思わない。本当の宝というものはそんな物ではないだろう」  若者は少し怒りながら答えました。 「僕はあまり人から諭されるような言い方は好きじゃありません」 「お若い方よ、実は私も昔は人里に住んでいた。その時は、幸せになれそうもない仕事をしながら、ただ日々が安穏に過ぎてくれればいいと思っていたよ」  若者はこの言葉の続きが気になって黙っていました。 「でも私はそれが続けられなかった。途中で転んでしまった。何故ならばそれは私がタヌキだったからだ。人に混じって生活をするのは酷く疲れた。誰もができることをできなくなって、誰もが行う義務を果たせなくなった。私は山に逃げたんだ。それで金貨を見つけた。君には悪いが、金貨はもうない」 「金貨は何に使ったんですか」 「この小屋を建てるのに使ったよ」  老人のその言葉に対し、若者は複雑な表情で質問をします。 「山にこもって、いったい何をしているんですか。ただただ暮らしているだけなのですか。金貨があったなら街に戻れたのではないですか」 「私は絵を描いて暮らしている。絵を描くのは昔から好きだったんだ。もう疲れる人里には戻りたくないよ」  若者は納得がいかなかった。なんでこの老人はこんなにも、まるで去勢された猫のように日々に満足できるのか、若者にはまったく理解できなかった。 「若い人よ。何をそんなに生き急いでいるかは分からないが、今日はもう疲れただろう。あまりいい布団はないんだ。暖炉の前で休んでくれ」  若者は、粗布を体に巻きつけ暖炉の前に横になると、自分の腕を枕にして眠りました。  パチパチと薪が燃える音がします。ホーホーとフクロウの鳴く声が聞こえます。老人は若者を家に招いたことを少し後悔しました。  若者が目をさますと暖炉の火は消え、窓から淡い光が注いでいました。コーン、コーンと外から音が聞こえます。若者が外へ行くと老人が薪を切っていました。 「おはようございます」 「おや、起きたようだね。朝食にしよう。山菜を集めてきたんだ」  二人は外で朝食にすることにしました。二人は山菜と少しの干し肉を食べ、渓流の涼やかな水で喉を満たしました。 「君はもう山を下りるのかね」と老人が若者に聞きました。 「はい、金貨のことは残念ですが、また別の場所を探そうと思います」  老人はため息をつきました。そして言いました。 「実は、金貨が少し残っている。私には必要の無いものだ。どうだ受け取ってくれるか」  若者は驚いて目を開きます。 「いいのですか。それなら喜んで受け取ります」 「ああ、直ぐ取ってこよう」 「ありがとうございます。でも帰る前にあなたが描いているという絵を見せてもらいたいのですが」  老人にとってこれは意外なことでした。何故なら老人は人に見せる為に絵を描いていたわけではなかったからです。 「いいだろう。でも下手だとは言ってくれるなよ」  二人が小屋の裏にまわると、扉がもう一つありました。若者が中に入るとそこには大きな絵がありました。かがり火を囲む楽しげな人々が描かれていました。 「こんなに大きい絵を、それにこれは祭りの絵ですね。しかし、上手だ、子供達も、恋人達も、大人も老人も、まるで生きているような笑顔だ」 「祭りは好きだった」  そういった老人はどこか寂しげな表情をしていました。若者は絵を見ている内に、どうも怒りがこみ上げてくるのを感じました。 「どうしてですか。どうして祭りが好きなら街へ下りないのです。どうして閉じこもって絵を描いているんですか」 「それは昨日答えただろう。それは私がタヌキだからだよ」  若者は絵に近づいて大声を出します。 「私は、私はこの絵がとても上手に描けていると思う。こんな絵を描くあなたの技術はとても素晴らしいものだと思う。でもこの絵も、あなたのことも、少しも称えたいとは思わない」 「そうか」  老人は呟きました。 「なんてふざけた人なんだ。一泊させてくれたことは感謝します。でも私はもう帰ります。二度とここには来ません」 「待ちなさい、金貨は貰って行かないのかい」 「いりません。それはあなたが山を下りる時のために持っていて下さい」  若者は大声で怒鳴ります。老人が言いました。 「私達は出会うべきではなっかったのかもしれないな」 「うるさい、この馬鹿タヌキ」  怒って飛び出した若者は、早足に山を下りて行きました。老人は一人、絵の前で立ち尽くしていました。爽やかな小鳥のさえずりが、山に朝を告げていました。
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